天道虫
今から三十年程前に日本は大きな転換点を迎えた。
その転換点における「選択」が、今の現状を作り出しているわけである。
日本経済は頂点を極め、ロックフェラーセンタービルを三菱が「買い取る」という状況にまで至った日本経済は、追いかけて来た「坂の上の雲」が消えてしまったのである。
アメリカを追いかけて来た日本経済は、アメリカの象徴である「ロックフェラーセンタービル」を所有したとき、追いかけるべきものを失った。
ここで新たな「夢」という「雲」を自ら見つけ出し、それを追いかけるべきであったのだが、恐らく今以上の「壮大」な「夢」というものを想像出来なかったのだろう。
それゆえ「選択」を間違えた。
頂点に立ち「上昇」することをやめ、この「頂上」を維持するための「守り」に入った。
一見聞こえはいいが、これは心の「反転」である。
ポジティブからネガティブへの「意思」の反転なのである。
そして企業の多くは戦略を「拡大」から「維持」へと切り替えた。
このとき私はまだ25~6歳であったが、「これはまずい」と直感した。
頂点を維持すると言うことは「挑戦し続ける」ことによって初めて可能となるものである。
だが、「挑戦し続ける」ことをやめたとき、やがて来る「挑戦者」たちに迫られ、そして追い越されて「下降」することを意味する。
世界は誰しも「挑戦」し続けている。
「坂の上の雲」を追いかけて坂道を上り続けている。
「挑戦」という山には「頂上」など本来無い。
登る者が「ここまで」と思ったとき、そこが「頂上(ピーク)」となるのである。
そして、「頂上(ピーク)」に留まり続けることなど出来ない。
「頂上(ピーク)」が現れたら後は「降る」だけなのである。
世界は常に「弥栄」に向かって活動しているのである。
その「弥栄」を留めることなど出来ない。
だが、日本は「挑戦」し続けることを手放しながら「頂上(ピーク)」を維持しようとした。
そんなことは無理であるのに・・・・
日本人の個々人はけっして「頂上(ピーク)」など迎えてはいなかった。
まだまだ発展する力も意思も希望も持っていた。
であるのにそれを手放した。
その「手放そう」とする経営者達を止めようとしたが、彼らの心は既に「反転」してしまっていた。
日本の唯一の「資産」は「人財」である。
けっして「人材」などではない。
その意識を持てる者があまりにも少なかった。
そして、反転した日本は「成長」を止めた。
だが、企業というものには「性(サガ)」がある。
それは「増益」しつづけなければならないという「性(サガ)」である。
増収、増益しなければ「株主」が「経営者」の首をすげ替える。
ただただ「利益」だけを求めるのが「株主」の「性(サガ)」である。
それゆえ「成長」しない会社を「増益」させるという必要性が生まれるわけである。
そうして行われたのが「固定費削減」と「法人税減税」による「利益捻出」の二本柱。
法人税を減税するために「消費税」を導入し、固定費を削減するために「人件費」を削っていった。
「悪のスパイラル」の始まりである。
このころ、探偵をしていた私の元には中国や韓国から依頼が来始めた。
それは「技術者」を確保するための調査依頼である。
「これこれこういう特許を持っている何某という人がいるので探して欲しい。何ならその人と交渉して引き抜いてくれるとありがたい。」
という趣旨の依頼が来始めた。
人材流出の始まりである。
技術者たちは「日本にいても浮かばれない」現状を抱えていた。
そこに海外から「自分の技術を求められる」ということは、技術者冥利につきる。
だから
「探すだけなら」
ということで何度か引き受けたが、やっていてあまりにも空しいのでやめた。
私がやめたところで誰か別の者がやるだけであるが・・・・
こうして日本の技術は少しずつ海外へと流れていった。
あれから三十年。
日本人はようやく「思い知った」のである。
自らの過ちに・・・・
「もっと早く気付よ」と思うが今更言ったところで始まらない。
しかし、気付いたところで改めることもない。
改心することなく別の方へと舵を切ろうとしている。
そしてまた選択を誤る。
「弥栄」の中心である日の本が「弥栄」を捨てたのである。
「財」たる「人」を捨てたのである。
「法人」という「人」ならざる生き物は、生きている限り生命活動を続ける。
目的が何であれ生命活動を続ける。
「財産」をただの「材料」と見なし続けてどこまでも進む。
こうして「大和魂」は「幽界御魂」へと転化し、西洋式の「奴隷」を求める方向へと進んでゆく。
気付いていながら・・・・
だから人は目覚めなければならない。
特に日本人は自らが「財(たから)」であるということに。
そして、自らを「財(たから)」へと昇華して行く必要がある。
自らを「材」にするか「財」にするかは自分次第。
その「最後の選択の時」はもう二年前から始まっている。
三十年前にも散々言っていた言葉であるが、「思い知った」今なら聞く耳もあるだろう。
『人は「材」ではない。「財」である。』
自分で自分を「材」と為す者、自分の尊厳を捨てたも同じである。
尊厳を捨てれば「尊(みこと)」とはなり得ない。
なり得なければ「御言」はけっして降りてこない。
自らを貶める者を神は嫌う。
自らを貶める者は他者をも貶める。
そこに「愛」はないのである。
だから「財(たから)」と成れ。
そのために「弥栄」せよ。
坂の上の雲を追いかけるのでは無く、天を目指して山を登り続けよ。
心の曇りを晴らして天へと登る道が「天道」である。
その「天道」を登って登って登り続けるのが「弥栄」である。
「天道」とは「おてんとう様」
それが【天照大御神】である。
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