神人合一【厳瑞劔(いづのめ)】の業




大蛇の渦に呑みこまれ 大蛇の一部と化したる魂

九分九分九厘の霊懸かり 次元の渦に呑まれゆく


情け心の思いに絡み 彼岸の霊が此岸に渡り

神を偽りこの世を荒らし 餓鬼畜生の地獄と化す



自分自分と思っているもの それは誠の自分であるか?

禍霊の思いに振り回されて 神様探して右往左往

堕ちたる守護神 神がわからず 迷子となりて人に寄りかかり

次元下降し神様探し 結びを忘れて遊び惚(ほう)けて

愚かなるかな守護神守護霊 蛇霊邪霊に寄り憑かれ

本分忘れた魂の結び 餓鬼畜生へと堕としたる



もはや守護は務まらぬ ゆえに一からお出直し

誠の神の分け御魂 入れ替え結びを戻すしか無し


伊豆能売の 神の最後の 慈悲の業

厳の御魂と瑞の御魂の 神をきちりと結ぶため

劔をもって祓い浄める 伊豆能売神の神の業

「改心」ならぬ「改神」で 歪んだ結びを改める



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人はほぼほぼ霊懸かりをしている

傲慢な名ばかりの守護は道を踏み外し

正しい道を見失って

守護する人を振り回すばかり


人は霊の衣にすぎぬ

その衣を好き勝手に使われて

入れ替わり立ち替わり様々な霊に自分を使われ

入れ替わり立ち替わりしているものを「自分」と思い込んでいる


すぐに気持ちが移り変わるのは

衣を着ている霊が変わるゆえ

あっちふらふら こっちふらふら

ひとつの道を真っすぐ進めぬ


このまま行けば餓鬼畜生道

大蛇の一部と成りたままである

弥勒へ向かう魂は

大蛇の腹から取り出さねばならぬ


ゆえに【厳瑞劔(いづのめ)】の劔をもって

大蛇を斬り祓いて劔と為す

大蛇に堕ちた守護神を

斬り捨て改神させねばならぬ


・・・・・


祓い浄めの【厳瑞劔】の劔は

【修祓(しゅばつ)】【雷華(らいか)】【多々羅(たたら)】の三つの業


禊ぎの大滝【修祓】で、心身を浄め禍霊を寄せ付けぬ身衣(みい)を修む

常に浄い心身を保てるよう、乙姫命の『満干の珠』で禊ぎ浄めることを修める

清涼な川の如き「巡り」を心身に取り戻す


浄化の炎【雷華】で、此岸と彼岸の瀬に群がる「情けの思いの影と霊」を焼き払う

愛と情けの違いを知って、愛の火を燃やして闇(病み)を祓うことを修める

眞名井に湧き出る「泉」のように、自らの愛の火を「此岸彼岸」に咲かせて「道(岩戸)」を開く


劔を槌打つ【多々羅】で、『真我』から「自分」を曲げない意思を鍛え

心身から「神」へと真直ぐな道を貫き、【高天原】まで『柱』届かせる【龍】を呼び起こす

高天原から現世(うつしよ)への「道」を通すため、霊と身を一致させ「五次元界」の魂の「主(あるじ)」となって、神世とこの世の『結び』を完結させる



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日ノ本の「神」の教えのみでは片端

月弓(月読)の「神」の教えのみでも片端

日月の二つを教えを結んで はじめて誠の教えが姿を現す


日ノ本の神話と婆羅門(月弓)の神話と『合わせ鏡』で結んで初めて『岩戸』が開かれる


日の教えは「柱」の教え 「神」の教え

月の教えは「型」の教え 「衣」の教え

二つ合わせて初めて神が衣を纏うことが出来る


仏陀の教え、ヨーガの教えは『神衣』を機織る教えであり、それのみでは「着る者」に合わせて創られないからいつまでたっても『衣』が完成しない。

しっかりと『神』を知り『神』に着せるための『衣』を織って初めてそこに『神』が現れて『衣』を纏うのである。


『神』を知るとは『おのれ』を知ること。

『自分』という『衣』を纏っているのは一体何なのか?


人という『衣』には「記憶」がある。

その「記憶」をもって「記憶」の連続をもって「自分」を測っているのだとしたら大間違いである。

「記憶」は「衣」に付随するもの。

それを『着ている』のが誠の自分であり、それを『真我』というのであるが、それがしょっちゅう入れ替わっている。

『真我』を脇に置いてわけのわからぬ「霊」に懸かられ、『衣』を好き勝手に使わせているが、「記憶の連続」が「自分」を証明していると思っているからわからないのである。

ただただ「脳」に閉じ込められた「思考」の檻の中で「自分」が「在る」のだと思っているから、自分ではない霊に使われても「それが自分」だと勘違いしている。


それだけではなく、様々な「霊」に感化され、飛んでくる「念」に感化され、それらの「思い」すら『自分の思い』と勘違いし、『誠の自分』が何なのかわからなくなっている「迷子」同然なのである。


一日の間にいったいどれくらい自分という『衣』を纏う「霊」が変わっているのか知る由もないだろう。

目の前でころころと入れ替わり立ち替わりする「霊」が、その身体という『衣』を使っていることに気付かず、ずっと「自分」が連続していると思っている。


そのような『衣』は【神】が着られるわけもなく、そもそも【神】に合っていないのである。



簡単に言えば、その『衣』を【神】が着られる『神衣』に「仕立て直す」ということ。



月弓(婆羅門)の教えには「仏魔」が入り込み、『衣』を仕立てても禍霊や悪神の『衣』となるばかりである。

ただただ『芯』のない『側』ばかりの『衣』を創り、そこに「何でも入れる(着れる)」ような『衣』である。

「技」という『側』ばかりを整え、「芯」となる『誠』が失われているから、道士も陰陽師も修験者も「世を歪める」行いばかりをしてきたのである。

今に至ってはそれが末端まで広がり、世は混沌の極みである。


神の『衣』は今や醜く禍々しいばかりである。


さらには、自らの『衣』を穢され歪められても平気でいるばかりの守護神たち。

堕ちるところまで堕ちたものである。



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瀬織津姫の『真経津の鏡(日月の鏡)』をもって「日の教え」と「月の教え」を結びて合わせた【厳瑞劔(いづのめ)】


まず最初に「陰陽五行」を「天地日月五龍」に結ぶ



そして月弓(婆羅門)の教えに「伊豆能売神」を結び、『神の道』への標(しるべ)と成す



さらに『豊玉姫』『玉依姫』(乙姫命)、『木花咲耶姫』を結び『神産み(神人合一)』の道を標す

クンダリーニの蛇を呼び起こし、龍へと転化しチャクラを開花させる



これらを『施術』と『波動共鳴』により【厳瑞劔(いづのめ)】の『神衣』へと仕立て直す


『施術』はあくまでも「道を開く」ものであり、それを『継続』するのは自身で修めねばなりません。


岩戸を開けば当然のことながら様々な「霊」が押し寄せる。

それに惑わされることなく「一本道」を貫けるものだけが、『高天原』へと届くのです。

自分を貫き、尊厳を貫き、道を貫き通す意志が「草薙劔」


すでに世界は大蛇の腹の中

大蛇の一部となるか劔となるか


残された時間はあまりない





ひふみ神示 地つ巻 第二十四帖

この方 明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであ るぞ。衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であ るぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。十月とは十(かみ)の月ぞ、ととの組みた月ぞ。