自らが日々行っている「取捨選択」を誇れるようにすることだ 《癒奏術・龍宮ノ章》
『お金のブロックが・・・・』
などという言葉を聞くたびにうんざりする。
『ブロックを外しましょう』
という言葉を聞くともっとうんざりする。
人は日々常に「取捨選択」の連続の中にある。
意識して「選択」するものよりも「無意識的」に選択することのほうが多い。
そんな「無意識的選択」の中には「絶対に外せない」ものもたくさんある。
その「外せない」理由を自問自答してみればいいだけである。
もしそれが出来たなら、二度と「ブロック」などと思わないだろう。
「ブロック」だなどという、わざと「ネガティブ」な言葉で『煽っている』ということがよくわかるだろう。
「お金を稼げない」と思っているなら大間違いである。
日々の「取捨選択」の中で「稼がない」ほうを自ら選択しているだけである。
「こっちを選択すればお金になる。だけどそれは選択できない」
だから選択していないだけのことであるのに「ブロック」などというネガティブな言葉で『呪い』をかけ続けるスピリチュアルというものは、やはりロクな代物ではない。
もし、すべての人のその「ブロック」としているものが外れたら、世の中は一体どうなるのか?
それこそ『餓鬼畜生』の【修羅場】と化す。
人には【良心】というものがある。
それが【真ん中】に据えられているから、世界は平和を保っていられるのである。
そんな【良心】を「ブロック」などとして「外せ」という。
私は20代の時に『もう稼ぐのはやめだ』と、明確な意思を持ってやめた。
【稼ぐ】ということの「裏側」にある事実に気付いたからである。
【稼ぐ】イコール『頑張った』という綺麗な言葉で装飾を施そうとも、その「裏側」にある【穢れ】は無くならない。
稼ぎたいなら、それ(裏側に在るもの)に「目をつぶり」「耳を塞ぎ」『初めから無かった』ことにする・・・・ということを【選択】すればいい。
だがそれを『していない』という事実が『稼いでいない』という事実と重なっているから『稼いでいない』という現実が生み出されている。
どうしてそれを誇れないのか?
自分の「良心」と共に【神】がある。
だから「良心」と「両親」は同じく「りょうしん」なのであり、「親」も「神」も「しん」と言うのである。
『ブロックを外す』
それは【神】という「良心(両親)」を『外す』ということ。
自分の日々の「取捨選択」をちゃんと見ればわかる。
『金』とは何ぞや?
『稼ぐ』とは何ぞや?
『ブロック』とは何ぞや?
自分の日々の『選択』の中にある【神】をしかと見極めることである。
自分が「やるべくしてやること」に対してお金が必要なら、必然的に流れてくる。
それは「稼ぐ」ことではなく「流れ」である。
「稼ぐ」という意思は「流れ」ではない。
「流れ」の中にむやみに手を突っ込み「流れ」を乱すことである。
田んぼをつくるなら「水の流れ」が必要なのと同じことである。
そんなものをつくりもしないのに、「水の流れ」は必要ない。
必要ないのに水を無理に「取りに行く」ことを「稼ぐ」というのである。
で、その「取った水」を『何とする?』
必要ないから日々の取捨選択の中で『選択』をしていない・・・ということに気付くことである。
それを『ブロック』などというのは【呪い】である。
そして、呪われたものは【呪い】を伝播する。
自分が日々「何を取って何を捨てているか」を知ることである。
そして「捨てている」ものの中に「稼ぐ」ことがある。
なぜそれを選択しているのか?
それは「そんなものより大事なもの」だからに決まっている。
どうしても稼ぎたいなら「その大事なもの」を捨てればいい。
私は20代の頃に「大事なもの」を「捨てない」選択をして今がある。
捨てれば稼げることも知っている。
だが捨てない。
それは自分にとって大切この上ないものだからである。
金ごときで買えるものではないからである。
さあ
いいかげん【呪い】から覚めよ
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