『偶像』~自由を縛る鋳型 《癒奏術・山桜の章》
『偶像崇拝』はいけないと言うが、いったい何がどう「いけない」のか?
『偶像』とは『固定観念』である。
神に対し、仏に対して『固定観念』を持つこととなる。
実際に『像』などがあるとそれは『先入観』となり、『先入観』から『固定観念』が入ってしまうということである。
まだまだ未熟なうちに『固定観念』に縛られてしまうと、そこから抜け出しにくくなる。
『先入観』という、自分にとって「都合のいい」観念であるから猶更厄介なものとなる。
これはなにも宗教観念だけの問題ではない。
日常の中に常に存在するものである。
この『先入観』による『固定観念』ゆえに人は苦しみ、そこから抜け出すためにもがき、だがそれでも「手放せない」のは、『固定観念』を都合よく「熟成」させてしまっているからである。
また、それを「支え」にしてきた部分もあるのだろう。
だから猶更それを手放すことが難しくなる。
『偶像』とは
「かく在るべき」
などという『固定観念』である。
神はかく在るべき
仏はかく在るべき
政治家はかく在るべき
メディアはかく在るべき
先生はかく在るべき
医者はかく在るべき
ヒーラーはかく在るべき
友はかく在るべき
親はかく在るべき
子はかく在るべき
etc・・・・
数え上げればきりがないほどにあるのである。
そんな『在るべき』と自分が勝手に「定義づけた偶像」から外れているとき、人は腹を立て、悲しみ、驚き、憂慮する。
だがそれは自分の中に作り上げた『偶像』でしかないものと『違う』というだけのこと。
そんな他者が作り上げた『偶像』に、自らを「寄せて」いかなければならない理由などどこにもないわけで、だがしかしそれでも人は寄せていくわけで・・・
その根底にあるのは「恐れ」である。
では何を恐れているのか?
自分が勝手に作り上げた『偶像』に、相手がそぐわないからと言って腹を立てる自分が居る。
だから、他者が作り上げた『偶像』に、自分がそぐわなければ「腹を立てられる」と思う。
そして、自分は他者が作り上げた『偶像』に沿っているのだから、自分の作った『偶像』に沿ってもらわなければ腹が立つ。
様々な『関係性の肩書き』にもれなく付随された『偶像』は、自分が勝手に「こうあってほしい」と願った『欲』でしかない。
『関係性』はただの『関係』であり、そのものの本質とは全く違うものである。
だが人は『関係性』などに『偶像』を付随する。
神や仏に対して「親子の情」を付随し、様々な関係に対して『善意』や『正義』や『慈悲』の『情』を付随して『偶像』を作り上げる。
思い通りにならないことに対しては『悪』の『偶像』を付随して、自己の欲求がかなわなかったことへの『情』を押し付ける。
自分は正しく在るべくして在る・・・というのもまた『偶像』であり、自分にとって都合のいい『偶像』を作り上げているだけである。
人は人として在るがまま在るだけであり、仏は仏、神は神として在るがまま在るだけで、ただそれを「在るがまま受け入れれば」良いだけである。
「かく在るべき」などという『鋳型』にはめ込んで、はまらないものに腹を立てていても仕方ない。
「こうあってほしい」という言葉を「かく在るべき」などという言葉へのすり替えは、単なる「押し付け」でしかない。
それらの根底にあるものは、単なる『情慾』なのであり、だから『偶像崇拝』はいけない・・・ということである。
在るがままを見る目を塞ぐ『偶像』という「曇り」を祓い、在るがままを見れば在るがままの姿が見える。
「肩書」に付随された『偶像』が、いかに本質からかけ離れていることか・・・・
他者を『偶像』で縛る時、自らも『偶像』に縛られる。
自らの『縛り』を解き放つのは、自らが他者の『縛り』を解き放った時である。
縛り続けている限り、自らも縛られ続ける。
自ら自由になりたくば、他者を自由にすることである。
在るがままを見られたいなら、在るがままを見ることである。
そこに善いも悪いも無い。
善し悪しは『偶像』との比較でしかない。
それとも、『偶像』を自らの「鎧」としているのか?
『偶像』を見せて錯覚させているのか?
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