『悪魔崇拝と共産主義とグローバリズム』 《癒奏術・山桜の章》




ちょうどプーチン大統領とタッカー・カールソンというジャーナリストの対談でそのような(タイトルのような)話が出ていたということで取り上げてみたいと思う。



ロスチャイルド男爵は以前、

「バチカンのフランシス(現教皇)でさえ、パンデミックが必要であったことを知っている。なぜ、あなたが言うところの「共産主義者」である彼が、歴史の中の特にこの時期にその職に据えられたと思う?」

と語っていた。


日本では、政治系某宗教団体が先頭に立って、パンデミックと共に「mRNAワクチン」を推進してきた。


そして神社は手水を止め、鈴を外して「祓い浄め」を阻止したのは何故か?



パンデミックに呼応するように動いた宗教界の行動は、「人と神をさらに遠ざける」振る舞いを行っていた。

確かに、神社に「天津神」がいるわけではないが、それでも地域を護るという役を担っていたところも少なくない。

だが、この三年間で日本の「土地の守護」は減退した。


そして、冥王星が動くとともに、彼ら悪魔、悪霊、悪神も一斉に動き出す。







彼ら(悪魔)は人の心の闇(病み)や隙間や欲といった『情』の狂いに乗じてゆく。

ちょうど「詐欺師」が言葉巧みに『情』を絡めとってゆくのと同じく、人の感情をコントロールし行動を操る。

『悪』へと進めるように、『善』なる「言い訳」を持たせる。

そうして人は「善いことをしている」という仮面を被り、「悪いこと」へと向かうブレーキを外す。

言葉だけは高尚であっても、行動は稚拙・・・

そんなことになってゆく。



かつてオラクルカードを広めた「ドリーン・バーチュ氏」は、自らの行動が『悪魔』によってそそのかされたものであると明かし、懺悔して改心して「カード」を使うことをやめてほしいと言った。

だが、もはや手遅れであった。


人の「欲坊」や「情け」に応える煌びやかな「天使」や「神々」の【偶像】は、すでに多くの人の心の「闇(病み)」に絡みついて離れない。

その「蔦草」は更なる伸びしろを求めて、人の心の「闇(病み)」を糧にして広がることをやめることは無い。




そうやって「スピリチュアル」の世界には、様々な悪魔の「蔦草の種」が撒かれて、それらは順調に成長を続けている。

人の「闇(病み)」が深ければ深いほど、多ければ多いほどよく育つ。

それら「蔦草」は【神】を語り、【天使】を語り、【善】を語り【愛】を語り・・・・

びっしりと張り巡らされてゆく。



『選んだのは君たちだよ』

悪魔はほくそ笑みながら語る。




だいたいのスピリチュアルというものは、確かに「高尚な目的」のために役立つのである。

だが、それを「高尚な目的」のために役立てるものがどれほどいるのか?

たいがいは「人生相談」という個人の「情」のために用いられる。

欲であり、悲しみであり、恨みつらみ妬み嫉みであり、怒りであり・・・

そんなものに使われるのがほとんどである。



刃物が料理も出来れば人殺しも出来るのと同じこと。

単なる「道具」は「道具」でしかなく、それを使う者、求める者の「選択」に委ねられる。


『だから選んだのは君たちだよ』

そう選ぶとわかっていながら道具の「高尚さ」の『一面』を語り、「高尚な言い訳」を与えて「タガを外し」てやることで『選択』の「導き」をするところは、まさに「詐欺師」そのままである。


世界平和のために占い師に相談に行くものは居らず、苦労を背負うために「目覚め」などしようとする者もいない。

それをわかって『選ばせる』巧妙さが、「蔦草」と共に広がり続ける。



これは何も昨日今日の話ではなく、恐らく千年、二千年と時間をかけて広がってきたのだろう。


そもそも「スピリチュアル」という言葉自体に「蔦草が巻きつく」ような言霊があるわけで、その言葉で広がっている時点で彼ら(悪魔)の「したり顔」が目に浮かぶ。



そうして人は自ら「破滅」を選択し続けている。





私がスピリチュアルの世界に足を踏み込んだ5年前から、そんな「蔦草」が伸びて来ては絡まりついてくるのを目の当たりにして、「蔦」が登って来ないところへと徐々に「敷居」を上げてゆき、それでも雑草の如くいくらでも這い寄ってくるから、切っていくしかないわけである。

その高い敷居を跨いで入って来た人が、「蔦草」を湧かせれば「切る」か「追い出す」しかない。

自ら「蔦草」を湧かせているなど思ってもいないのだろうが、だから「仕方ない」などというわけにはいかないのである。



「善」の仮面を被った蔦草を「蔦草」であると気付かない限り、その人は「蔦草」を拡げ行くことになる。

いくら「善」に見えても、自分の中の「闇(病み)」を寝床に生えたものは、やがて『悪』へと巡ることになる。



ちょっと気を抜けばすぐに芽を出す蔦草は、よほど厳しく自分の心を見ていなければ、すぐに枝が伸びて他者へと這い寄ってゆくことになる。

「情」が湧き立てば「糧」を得てさらに伸び、それが更なる「闇(病み)」を生み、「情」を生んで「蔦」が伸びる。

そうして今度は「蔦草」に導かれるように行動してしまうこととなる。


そこに「情け」をかければどうなるか?

さらに「糧」を与えることになるのである。



だから『愛』があるなら「切る」のである。



そこでも気付けなければ、さらに「蔦草」に覆われて、深い闇へと包まれてゆく。






自分が『善』だと思っているもの、その思いの根源は何なのか?

そこに『闇(病み)』があり『情』が根源であるなら、そこから出る芽は「蔦草」である。

そこに植えられた種も「蔦草」である。



【神】から繋がるはずの柱の大樹に、蔦草をびっしりと絡ませ、その蔦草を【神木】としているかぎり、神と繋がることは無く、目覚めた途端に「悪霊」が迎えに来るだろう。


大樹を育てるはずの神々の「愛」の導きも、蔦草を育てる「情」へと転化し、育てている「つもり」になってはいないか?




何が善で何が悪か、ますますわからなくなってくる世界となる。

曇りを晴らせるのは今のうち。

「曇り」とは「蔦草」

情で湧いた蔦草である。

自らの大樹に絡みついた蔦草を、自らの手で切り払うことが出来るか?


『選ぶのは君たちだ』




今、世界を覆うように拡がり続けている闇は、人の心の状態がそのまま現出しているだけである。

自らの心に広げた蔦草のぶんだけ、世界には闇が拡がる。


神が降ろす光のメッセージは、覆われた蔦草にはばまれて届かない。

光の玉は導きの「言霊」である。

しかし「蔦草」に包まれた柱の「大樹」は、その光を届けられず、蔦草に捻じ曲げられて「別の光」として伝わる。

言霊は「情」のフィルターを通って、別の言霊に変貌する。



ほくそ笑む「悪霊」「悪神」「悪魔」たち・・・



さあ、どうする?

選ぶのは君たちだ。


そして、選んだ先が自分の未来である。