【玉姫】~稲荷神界の姫神 《癒奏術・山桜の章》
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かつては【八岐大蛇】の一岐であったキツネ霊であるが、改心して「神に仕える」ことで【稲荷神】となったものたちである。
ゆえに、その性(さが)には「オロチ」の性も残っており、だがそれは言わば「道具」のようなもので、使い方によってその性は善くも悪くもなるわけである。
そんなキツネたちの中で、『巫女』となるのが【玉姫】であり、それはいわば【神との結婚】を意味する。
そんな【稲荷の姫神】が神社ごとに居るわけで(小さなところは知らないが・・・)、キツネたちが【神】として存在し得るのもこの【玉姫】あってのものである。
この「かつて八岐大蛇」であったキツネたちの力とは、いわゆる『引き寄せる力』というもので、人の行動を「案内」するように「導く」のがその力の根源である。
つまり、「無意識に」キツネに連れられていたりするというわけである。
私も時々「あぁ、キツネに引っ張られたか・・・」と、気付けば稲荷神社の前に立っていることがある。
そんなキツネたちの中でも【玉姫】の『引く力』は非常に強い。
それでも各地の稲荷神社の玉姫が及ぼし得る力の範囲は限られている。
だが、その中でも【伏見稲荷大社】の【玉姫】は別格である。
【玉姫】の中のおそらく頂点に君臨する【玉姫】である。
時々【玉姫】に呼ばれて(引っ張られて)稲荷神社に行ったりするが、大抵は『祓い浄め』のために呼ばれる。
たまたま『領域』に入ったところで、キツネに連れられて無意識に稲荷神社へと向かうこととなり、行った先の神社には『邪気』が充満していたりする。
「またか・・・」
と思いながら祓い浄めの祈りを行うと、「ふわり」とキツネの顔が現れる。
『ありがとう』とでも言っているのだろう。
「はいはい、いいですよ。」
そういって思いっきり「柏手」を打ち、最後の払いをして終える。
時々、自転車で「六甲山頂」まで上がり、【六甲比売神社】の磐座へと向かうのだが、この時、手前にある「再度山」の「大龍寺」にある稲荷が「こっちへ」と言わんばかりに引っ張る。
「いやいや、今日は山頂へ用事がある。」
と言っても引っ張るのをやめない。
このへんがキツネらしいと言えばそうなのだが、それはそれで迷惑な話である。
六甲山頂へ続く道の途中に、再度山へ向かう分かれ道があるが、そこを過ぎてもしばらくの間は、キツネに引っ張られるため自転車が思うように進まない・・・・
「重い・・・・」
そんなことが何度かあってからは、六甲山頂にある「稲荷」に助けを呼ぶ。
「そっちへ行くから何とかしてくれ」
と『念』を飛ばすと、今度は自転車が飛ぶように軽くなる。
「引っ張る」キツネが変わったということだ。
「これはいい、ありがたい。」
そう思いながら登っていると、ふと「軽さ」が消える。
「もうちょっと引っ張ってくれ」
そう思うが、そこまではしてくれないのが彼らである。
ある時、【伏見稲荷】の【玉姫】に呼ばれたことがあった。
確か「長雨」が続き関西の山々が崩れた時があり、その時「稲荷山」も例外ではなかった。
その後の「コロナ騒動」が始まった2020年に稲荷山へ赴いた。
外国人観光客も激減し、山は洗われたように涼やかであった。
それでも稲荷山独特の「霊界」たる雰囲気はあったが・・・
さて、【玉姫】さまはどこにおられるのだろうか?
「祠」というものが無数にあるのが稲荷山である。
その中から【玉姫】にどうやって辿り着くのか・・・・
だがその心配は皆無であった。
鳥居の階段を登っていると
『こっち』
と言わんばかりに妙に「引っ張られる」先があり、行ってみるとそこが【玉姫】の祠であったから、迷わずまっすぐ来れたわけである。
さて、何で呼ばれたのだろうか?
山は長雨と木々の倒壊、観光客の激減で浄まっている。
それに、こんな霊山で祓い浄めなど出来るわけがない。
どれだけ「うじゃうじゃ」といることか・・・・・
だが、呼ばれたのは『仲人』であった。
つまり『嫁入り』する【玉姫】となる狐霊を、嫁ぎ先へ連れて行くという・・・・・
しかも三人(三霊?)
そして、その後に行った三か所の神社では、みごとに「雨の日」であり、しかも神社に着くと晴れ間が現れる。
『キツネの嫁入り』
であった。
何故、今このような話をするかというと、【玉姫】からの『警鐘』である。
あなた方が日頃食べているものを作っている会社、来ている服を作っている会社、使っている電化製品を作っている会社、あなたが働いている会社。
それらに【稲荷】たちの力が使われていたりする。
それが「日本」という国を「護る」というものであれば、稲荷のキツネたちの行動は『神意』となる。
しかし、今やそれは乱れに乱れ、混沌としているのが現状なのである。
キツネたちの「引く力」を、ただただ私利私欲のために利用することが横行しているためである。
『引き寄せ』
それはキツネたちの力を使う最たるもの。
だが、それで引き寄せられるものは、本来の道から外れてゆくわけである。
神の巫女たる【玉姫】の意で行う引き寄せは「神意」であるが、人の私利私欲でキツネたちが動く様は、かつねの『八岐大蛇の大禍』そのものの再現である。
『神意』を離れて人の私欲で力が発現されるのは『オロチ』そのものなのである。
だから【玉姫】は警鐘を鳴らしている。
「引き寄せる」ということは、本来の流れを「曲げる」ことである。
『神意の引き寄せ』と『欲の引き寄せ』は、現象としては同じでも、真意は似ても似つかないものである。
つまりは『オロチ』を湧かせているということ。
キツネは何処にでもいる。
そして、それらは『ケモノ』であるということ。
そんな『ケモノ』と戯れて、同じく『獣化』してゆく人々・・・
『引き寄せ』というものを履き違え勘違いした成れの果てである。
『魂の引き寄せ』というものは、力で引き寄せるものではない。
自らの魂が『引き寄せられていく』のが『魂の引き寄せ』である。
魂本来の「意」が向くままに「引き寄せられていく先」で『与える』のが本来あるべき姿である。
だが今の『引き寄せ』というものは、自分は動かず他者を動かして自分に『吸い寄せる』ことが常となっている。
【玉姫】の手を離れ統制が利かなくなったキツネたちが溢れている。
そして、獣化した人は狐のような顔や仕草となってゆく。
そして・・・・
『光』を毛嫌いするようになる。
つまりは『闇』へと他者を『引き寄せて』いるわけである。
『光』とは『神光(しんこう)』であり、それは『信仰』に通ずるのも。
『信仰』を失わせしめ、目先の「実利」を崇め「岩戸」を閉めてしまうということである。
そうして『闇堕ち』していくもの数多となっている。
「昇る」よりも「落ちる」ほうが圧倒的に早いのは世の理(ことわり)である。
禍はあっという間に大禍となり、今に至っている。
この世の次元である三次元に囚われていれば、同じ場所に立っているものと勘違いするが、すでに魂はその次元の階層を異にしている。
全く違う次元に存在しているのである。
そうなれば、守護の手は一切届かず、堕ちた分だけ上がるのは相当大変な道のりとなる。
そんな闇の中で『蜘蛛の糸』を見つけられれば幸いである。
だがそこでも同じように「自分だけ」という精神を発揮すれば、「カンダタ」のようになるだろう。
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