金を稼いでいる限り、奴隷の道からは抜けられない 《癒奏術・山桜の章》





どんなに高尚な事を語ろうとも、どんなに自由に見えようとも、『金』を稼いでいる限りは『隷属』の道を歩いているのである。


それが人類にとっての最大の『MATRIX』であり、その『意識の壁』に閉じ込めることが『支配』を完全なるものにすることなのである。



何故か人はどうしてもその『壁』が超えられない。

「自由」と言いながらも、それは『塀の中』の自由でしかなく、至極立派な言葉を語れど、それはやはり『塀の中』にしか響かない言葉である。





幼少のころから母子家庭であった私は、子供の頃からすでに「金の奴隷」たる環境の中にあり、小学生になった頃には母から常に「金が・・・」という言葉を聞き続けてきた。

「金が無い」「金が欲しい」

そんな空気が常に付きまとう環境の中で、幼い子供はどう考えるか?


まあ、それは人それぞれである。

母が醸し出す「空気」を察知できるものとできないものでは考え方が自ずと違ってくる。


兄が「大学」へ進学するということが見えてきた時期から、今まで「空気」であったものは、明確な「言葉」へと変わっていった。

母にしてみれば「兄を大学へ」というのは「親心」であり当然な思いである。

だがその思いと現実が「そぐわない」

だから、今までは口にしなかった「空気」を「言葉」として吐き出し始めたわけである。

きっと、そうしないと心に膨れ上がる「不安」を抱えきれなくなるからだろう。

だが、ただ口にしたところでその「不安」は消えることはない。

その口にした「言葉」を『誰かが背負って』初めて「肩の荷が軽くなる」のであるから。


その「背負う」役目が弟である私になったということだ。

何故か?

「空気」を察知してしまうからである。

それは「気付く」ということ。

そして、母から見れば「気付いてくれる」ということ。

だからそのままの流れで「空気」は「言葉」に変わり、だが今まで通り私が「背負う」こととなっただけである。


当の兄はというと、「空気」すら感じないから幸せである。

金がないのに「東京の大学へ行って下宿生活する」などと平気で言う。

これにはさすがに母も「そんな金があるか!」とキレたが・・・



大変だったのは私が高校へ行くという時である。

金を工面するために、別れた父のところへ連れて行かれ、自分で「お願い」させられるということになった。

だがその父も「そんな金あるか」と・・・

「高校」になぞ行かなくていいと・・・・


私も「行かなくていいか」と思っていたが、母は「行け」という。

「親心」というものである。

これで「断念」させたら母もいたたまれない思いとなるだろう。

だから高校へ行くことにした。


だが・・・・

母の心が現れるように家の中は混沌としていった。

そして、「金がない」という「空気」と「言葉」は、日常に当たり前のように在るものとなった。

だが兄は賢い。

「見ざる言わざる聞かざる」で、一切かかわろうとしなかった。

だから再び私が「気付いて背負う」こととなる。

そして、私が高校を辞め、働いて給料を渡してやると、淀んだ家の中の空気は澄んでいった。



だから、私は「金を稼ぐ」ということを追いかけた。

そして二十歳の頃には「投資」の世界に居り、「稼ぐ」ことを知り実際に稼いだ。

「稼ごうと思い稼ごうとすれば稼げる」

それがよくわかった。


そして、そこから更に「稼ぐ」道へと至る「分岐点」が訪れる。

だがそこで私は気付いた。

その「分岐点」があったから気付けたのだろう。

自分の魂を売っている・・・ということに。



そうして私は仕事を変えた。

禊ぎするために「一個配達して100円」の荷物を、毎日100個200個と走り回って配りながら、魂を取り返すために禊ぎをするように走り回った。




「金を稼ぐ」ということは「何かを売る」ということである。

それが至極当然の理(ことわり)

では「何を」売るのか?


稼いだ分だけ「売っているもの」がある。

その「売った量」に比例して「稼げる」のである。


人間一人の行動で売れるモノは限られている。

だが「頭を使えば」もっと売るものが増えて稼げるようになる。


では、頭を使って増やした「売るもの」とは何だ?


それは「他者の働き」である。

他者の行動、他者の稼ぎ、そんな他人の「上前を撥ねる」ことで「稼ぎを増やす」のが『頭を使う』ということである。


それが複雑に入り組んでしまえば「上前を撥ねられて」いることに気付かない。

要は「撥ねる側」に居るか「撥ねられる」側に居るかという事である。

これは「理(ことわり)」であり「不変」の理であるから、気付かないだけで誰一人として例外なく、その理の中で、削り削られしながら生きているわけである。




私は20代の前半の「稼ぐ分岐点」でそのことに気付いた。

気付けたと言った方がいいかもしれない。

私がその「分岐点」で何を思ったかというと、

「例えば今10億の金が入ったとしたら何を欲するだろうか?」

と考えた時、自分の心が「即答」した。

「時間を買う」と・・・


そこで「あっ」と気付いた。

「時間を買うために時間を使っている」ということに・・・

そのことがあまりにも「愚か」に思えた。


「時間を買って何をする?」

「様々な経験をする」


それが答えであった。



だから、「禊ぎ」を数年やって「終えた」と感じた後、私が取った行動は

『時間を稼ぐ』

という生き方である。


「金を稼ぐ」という『壁』の存在に気付き、その『壁』から「脱出」した瞬間である。



『時間を稼ぐ』という生き方は、今までの意識とは「全くの別物」である。

『塀』を自由に超えて外へ行けるのである。


その「自由」な生き方として「自由業」となり、17歳の時は「金を稼ぐ」という中で、せめて仕事は自由にしたい・・・という思いで働いていた『探偵』という職業に戻った。

だが『意識』が全く違うから、働き方そのものが違う。

『探偵』という「自由業」はあくまで「自由」を得るための、「時間」を稼ぐための「足掛かり」でしかなく、だからそこに囚われることもない。

探偵をしながらも様々な職業というものを「経験する自由」があり、その「時間の使い方」は、「時間を稼いでいる」からコントロールできる。

職業という経験だけでなく、様々な「経験する時間」を「稼いでは使う」ということを、そこから10数年続けてきた。


「稼いだ時間を貯めて、たくさん貯まったら一気に使う」

などという愚かな考えには至らない。

何故なら時間は「生もの」であり、新鮮であるほど価値が高い。


「今出来ることは今しかない」

そんな「時間」がたくさんある。

多くの人はそれらを見逃して生きているわけである。




『塀』の中の住人は、『塀の外』があるなどと思いもしない。

『塀の中』で「自由」を語れど、所詮は『塀の中』である。

『塀の外側』を知っている者から見れば『囚われの身』である。



今、私は「探偵」ではないが、『自由の身』であることに変わりはない。

それは『自由に生きる型』を身に着けたからからである。

だから「何をやっても」その『型』通りに生きれば『自由』となる。


『型にハマっている』わけではない。

『型にハマらない型』なのである。


『型』とは「側」であり日月神示で言うところの「〇(側)」

だが私の生き方は「軸足を置く」という生き方である。

日月神示で言うところの「・(軸)」から『外れない』という『型』なのである。



そうして『・(軸)』の生き方を会得したところで、その『・(軸)』となる「施術」を土台とする形で【神】が降りたわけである。




『・(軸)』がなければ「自由」にはなれない。

『〇(側)』の内側でしか生きられないのである。

金を稼いでいるかぎり「〇(塀)」の中からは出られない。

「〇(塀)」から出るには『・(軸)』となる自分の「芯」が無ければ、自由に行動できないのである。


「〇(側)」も無く「・(軸)」も無ければ「立つ」ことさえ出来ない。

だから人は誰かが作った「〇(側)」という「型」に寄り添いようやく立っているという状態である。

そして、「金」も『誰かが作った〇(側)』なのである。

その「〇(側)」に寄りかかって立っている状態なのである。



高尚に「自由」を語る人は多けれど、本当に「自由」な人はわずかである。

「金」というのは「ただの水」であり、咽喉が乾けば潤せばいいだけのものである。

にもかかわらず「金」という「ただの水」を追い求める人々は、『常に渇き』を訴えている【餓鬼】のように「仕立てられている」ということに気付かず・・・・


『〇(塀)』の中で『飢え渇き』に苛まれ続けるよう「意識に刷り込まれた調教」の中にあるようで、それを神々の目から見れば『餓鬼畜生の世界』としか見えない。

だから「蜘蛛の糸」を垂らしているのだが、『渇き』に苛まれそれどころではないらしい。

目の前に垂れ下がる「蜘蛛の糸」すら見えていないのであろう。




人の心の中では常に「飢え」と「渇き」がある。

それは「何かが足りない」という心の声なのであるが、それを「脳に刷り込まれた知識」が『金』と結びつける。

そして『金』を追いかける。

だが、追いかけても追いかけても、そして「得たところで」その「足りない何か」は満たされることはない。


その「足りない」ものが「金ではない」と気付けたなら、目の前にぶら下がる「蜘蛛の糸」がようやく見えるようになるだろう。

その「糸」を登れば、『塀の外側』が見えてくる。

そうしてようやく『塀の外の世界』があることに気付く。



「カンダタ」は、そんな「蜘蛛の糸」に気付いて登り始めた人々を蹴落とそうとしたわけである。

だから「糸」は切れた。




あ、そうそう。

ひとつ付け加えるのを忘れていた。


『金』は「作っている」ものがおり、そして彼らはそれを『売っている』のである。

世界中の人類に対して・・・

『金を売っている』のである。


で、彼らは何を「買っている」のか?


『人の魂』である。