気付きという「虫の知らせ」~察知能力を高めるための掃除洗濯 《癒奏術・三四五》




今日、久しぶりに土曜日の仕事を休んだ。

体調が悪いからなのだが、実はこの「体調不良」も「虫の知らせ」の一部であったりする。


実は先週あたりから体調の不穏な変化が起こっていた。

だから今週に入ってデトックスに集中していた。

おそらく今までのものでは「ダメ」になっているため、新しいデトックスを更新しなければならないと考えていたところに「炊飯器」が駄目になった。


『そこから変えるのか・・・』


これも「虫の知らせ」である。

そうして炊飯器も新しくし、「炊飯」自体から見直しをするとともに、内臓の不調に対するアプローチを変更している。

とはいってもベースとなるデトックスは変わらず、そこに付随していたものを「時と場合」により変化させていく・・・ということだ。



「気付き」

「察知」

「虫の知らせ」

これら『導き』を数年かけて精査し確認し、実証してきたから今では充分信頼している。

それでも時々は反対のことをしてみるが、やはり「やらなければよかった」という結果に至る。


実際、察知してリスクを回避してしまえば、実際に回避していたのかどうかということは、回避してしまっているからわからない。

そういう意味で時々「察知」を無視してみるのだが、そうするとリスクを被る結果となる。




今日は朝から救急車の音が続いており、途中、救急車が足りないために出動する消防車の音も聞こえてくる。

昼を過ぎるまでにもう6台はこのあたりを通過し、近くに止まっていたりする。

恐らく「先週あたりからの不調」と連動しているのだろう。




少し前くらいから、部屋の中にゴキブリが侵入すると「わかる」ようになっている。

見たわけでも音がしているわけでもない。

頭の中に映像として現れる。

そして「いるぞ」ということがわかる。

すると、侵入したての奴を発見する。


それ以前に「ゴキブリが侵入してしまう部屋の空気感」というものもわかるようになっている。

「淀んでいる」

だから、そんなときにしか奴らは侵入してこないことがわかった。


ちょうど先週あたり、体調不良とともに部屋の空気も淀んでおり、「あぁ、来るな。」と思っていたら案の定侵入してきた。







人はせっかくの「導き」を常に取りこぼしている。

それは日常の思考が「取りこぼす」ようになっているからである。

左傾化した思考脳はすぐに「エビデンス」や「意味」や「理由」を求める。

それらの「思考のごみ」が導きを妨げているのであるが、それがないと「導き」を実行できない。

そして導きに従えぬまま「結果」を迎えてしまう。

だから今の状態では世界は救えないのである。

自ら「救いの手」を取らないのだから「救いようがない」のだ。




先月の末ごろに自宅を中心とした『五芒結界』を刻んできた。

これも導きによるもの。


だが、私は未だ「五芒結界」を刻みに走り回ったその「意味」も「理由」も知らない。

「何かあるはず」

そう思っているだけである。

だがそれは後にわかる時が来ればわかること。





鳴門の大渦を渡る船は、自分で舵を切っていては間違う。

ただ「神風」に委ねる。

川下りの船頭が「竿」を突き立てるように、導きに委ね、虫の知らせに行動し、気付きを実行する。

エビデンスや意味や理由を先に知ろうとするのは「舵」を握って離さぬのと同じこと。

それ以上に「流れに」乗ろうともしないこと。


「そこにいたら沈むぞ」

「そっちに行ったら沈むぞ」

と言われて、本当かどうか迷い続け、沈み始めてようやく悟る。

「沈む」というエビデンス、そして意味や理由を「沈み始めて」ようやく知る。

その時では遅いのだが・・・・





ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻 第二帖

霊界に方位はない、人民は東西南北と申してゐるなれど、今に東の東が現れてくるぞ。霊界では光のさす方が北ぢゃ、その他の東西南北は皆南ぢゃ、北が元ぢゃ、北(基田)よくなるぞと申してあろうがな。鳴門(ナルト)の渦巻を渡る時はカヂをはなして、手放しで流れに任せると渡れるのであるぞ、カヂをとると同じ処をグルグルぢゃ。カヂをはなせる人民少ないのう。何んでも彼んでもカヂをとって自分の思ふ通りに舟を進めようとするから大変が起るのぢゃ、渦にまかせる時はまかさなければならんぞ、ナルトの仕組の一面であるぞ、大切ごとぞ。