共生の道
自然農法というものに興味を持ち、一昨年くらいから畑を借りて作物を作り始めた。
全くのド素人でありろくに勉強もせず始めたものだから、四苦八苦しながらである。
教えを請い学ぶことは大切である。
それと同時に自分で失敗を繰り返しながら学ぶことも大切である。
「失敗する可能性のある道」というものは、『未だ誰も歩いていない道』でもある。
だから、そんな道にこそ【新たな発見】があるわけで、そんな【可能性】を秘めているなら好奇心は抑えられない。
だから私は失敗を繰り返す。
そんな繰り返しの中で「新しい道」を発見するのである。
癒奏術はそんな繰り返しの中から生まれた。
【誰も歩いていない道】
そこを進む勇気と覚悟と「あきらめない」という【根気】が大切なのである。
そうして
「自分が思う自然農法とは何なのか?」
その問いかけから始まった。
免疫
人が病気や怪我をしたときに【免疫】が働く。
それは大地も同じで、大地が怪我をすれば免疫が働き修復し始める。
畑を始めてそれがよくわかった。
畑と人は言うけれど、それは大地にとっては「怪我」である。
人が怪我をすれば血が流れ、膿が出て、かさぶたが出来て、やがて皮膚が再生される。
畑というのは大地の皮膚を剥がして作っているものだから、大地はその怪我を修復する【免疫】で、雑草といわれる様々な植物が「一定の順番」で生え替わり、その間、虫たちやカエルやトカゲ、蛇やモグラ、鳥といった人間でいうところの「免疫細胞」たちが「植物」という『皮膚』の再生を手伝う。
こんな大地の『自然免疫』と上手に付き合うのが「自然農法」だろうと私的見解がこの二年弱で出来上がった。
通常の畑はこの大地の『自然免疫』を【悪】とする。
なぜなら、畑とは「本来そこに生息し得ない植物を生息」させることであるから、それを「排除」しにかかる『自然免疫』が悪となってしまう。
この『自然免疫』を「悪としない」在り方は出来ないものか?
本来生息し得ないものを『共生』させる
それが「不自然と自然」を調和させ、不調和である『悪』を生まない「在り方」なのだろうと思う。
こうして自分なりに出した答えではあるが、ではそれをどのように実現するか?
それが実現出来れば、おそらく社会のあらゆる場面で『悪』という「不調和」を減らせるだろう。
そして、その答えは施術というものの中にもある。
当たり前のことであるが、それには「お互いの歩み寄り」によって実現していくものであろう。
畑を作る側の「我」はそのままに、自然をコントロールしようなどというのは「歩み寄り」にはならない。
歩み寄りというなら、例えば「森の中で育つ作物」を「森を切り開かずに」育てるような感じか・・・
川べりで育つ作物を厳選し川べりで育てるとか、道ばたで育つ作物を道ばたで育てるとか、そういった「歩み寄り」も大切だろう。
そういう歩み寄りが「共生」を育み、『雑草排除』という暴虐をしなくても『大自然』が作物を育ててくれる環境になるのだろうと・・・・
しかし、人は自分たちの身体に対しても同じような過ちを犯している。
風邪をひけば熱が出たり、鼻水が出たり、咳が出たり、食欲が減退したり、身体がだるくなったり・・・
これらの症状を【悪】とし【病】としているが、これらは実際のところ【免疫機能】の現れにすぎない。
畑に雑草が生え、生物が集まり大地を修復するのとおなじことである。
なのにそれを【悪】として、【免疫】を排除する「治療」という名の暴虐を行う。
ワクチンを打つと言うことは、さしずめ畑に【除草剤】を撒くようなものである。
だが多くの人は自らの身体に「ワクチン」という名の【除草剤】を撒いた。
それは、多くの人が【共生】という考えからほど遠いことを示す。
悪ならぬものを悪とし、「排除」の論理で行動している。
要は【悪】の見極めがついていないことを示している。
このような現状で【自然農法】は受け入れられない。
思うに易し、行うに難しである。
だが、失敗を繰り返しながら「道を開く」のが私のモットーである。
そしてそれはすべてに通ずる。
なぜなら、それは『道』だから・・・・
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