言霊降ろし
前回の「預言と呪い」の記事で【言霊】について少し書いていたので、そのことに関してもう少し突っ込んで書いてみたいと思う。
言霊を降ろすというのは、イタコのような霊媒師がその身に霊を懸からせるのとは違う。
そもそも「降ろす」という言葉は勘違いを産むだろう。
言霊は「湧き立つ」ものであるからだ。
目の前に映像が現れるように、音無き音で現れる。
空に雲が湧き立つように湧き立つわけである。
目の前にどのような「存在」がいるのか?
そして、どんな存在が言霊を伝えてきているのか?
それらを把握している人は少ないと思う。
とりあえず出てきた言葉を紡ぎ出す・・・
それを「宇宙さん」と言い「妖精さん」と言い、「神」と言う。
わからないままに・・・・・
神社だからといって、神棚があるからといって、その「神」が言霊を伝えてくるわけではない。
そこには様々な「霊」が居り、その人相当の霊が寄ってくる。
うちにも様々な霊が行き来しており、狐や小動物のようなものも居れば、天狗のようなものも来る。
そんな様々いる霊の「どれ」とアクセスしているのかをきちんと知らねばならない。
その時の自分のチャンネルが最も近しい霊がアクセスして来るわけである。
チャンネルとは自分の状態の周波数のようなものである。
自分の状態とは自分自身の「精神性」である。
「神」に向いているからと言って、そもそも「神」を間違えていれば「神」には繋がらない。
そして、「神」に近づくだけの「精神性」が求められる。
心が曇っている状態で「神」がそこに現れることはない。
そこに現れるのは、曇り相当の霊である。
心が澄み切り精神性が上がらなければ、そもそも自分の魂は神の領域へなど到底到達出来ない。
到達出来ないのにどうして神の言霊が聞けるのか?
本当の霊能者ならば「神の言葉」など簡単に聞けないことを知っている。
霊能力があるから聞ける訳ではないのである。
神の言霊は「神の霊」の言霊である。
神の領域から少し下がったところに霊が現れ、さらに自らの霊が言霊を受け取り、それを三次元まで降ろすわけである。
自分の霊も高度な領域に到達出来ねばならず、だから精神性が問われる。
そして三次元の自分が最終的に翻訳して完了するのであるが、その「段階」など見ている人はほぼ居ない。
また、三次元の段階で自らの「思考」や「慾」が混じれば、言霊は穢れ曲がる。
曲がればそれはもはや「神の言葉」ではない。
神の言霊を利用して「曲げた」ものの「意図」となる。
そのへんに徘徊する多くの「霊」に騙される状態で、どうして神の言葉が出せるのか?
その辺の霊に騙されるということは、その辺の人にも簡単に騙される。
「スピリチュアル」という言葉の言霊には、そんな「靄(もや)」のかかった響きがある。
言葉の中にある言霊自体が「真っ直ぐ」ではないのである。
神が伝えてくる言霊は実に真っ直ぐである。
ちょうど「竹を割った」ような真っ直ぐな言葉ばかりなのである。
その言霊を一切「曲げず」に現せば、その言葉はまるで「カミナリ」のような強烈なエネルギーを持っている。
その衝撃に対して「怒られている」と受け取る人もいる。
だがそれは自分の中にある「やましさ」がそう感じさせるだけであり、実際、神は怒っているわけではない。
だからこそ自分自身が「澄み切る」必要がある。
心の中にあるものが神の意図をねじ曲げてしまうからである。
霊が伝え来る言霊はもっと穏やかである。
だがそれも自分自身が「澄み切って」いなければ、霊の意図を見抜けない。
見抜けないまま間違うばかりとなる。
天狗は偉そうで鼻高そのものである。
だからそれを神と間違う人も多い。
また、白ギツネは言葉を発せず意図を伝えてくる。
言霊を使う狐は「ふり」をすることを覚えた別の古狐である。
白ギツネは基本「宇賀神」の管轄であり「結び」を行うものであるから、言葉を伝えるのでは無く「道案内」をして「導く」ことが基本だからで、そこに言葉は必要無い。
だから言葉を伝えてくる白ギツネがいるとすれば、それは何者かが「ふり」をしているということである。
さらに「蛇」の霊もいる。
それも本来は「道案内」である。
キツネの道と蛇の道は、通る道が基本的に違う。
だから案内する「道のり」が違うわけである。
何かの壁にぶつかったときなど、蛇の道案内が力を発揮する。
ちなみに「龍」も道案内する。
だが気付きにくい。
天空高く飛びながら案内されても、気付ける人は少ない。
けっこうアピールするものなのだが、空を見上げることも少ない現代人では気付ける人も少ないのはやむを得ない。
都会では空もたいして見えないし・・・・
「疑う」ということは「知る」ためには欠かせないことである。
そして疑えば疑うほど騙されなくなる。
騙されなければ騙そうとはして来なくなる。
疑えば疑うほどに「神」に近づく。
「神」すら疑うほどでなければ神は掴めない。
人を騙すなど高度な霊にとっては簡単なことなのである。
数十年しか生きておらず、三次元に縛られた人間など騙すのは、何百年、何千年と存在している霊にとっては、赤子を騙すほどに簡単なことである。
そして多くの人は「騙されたい」と願っている。
「嘘」でもいいと思っている。
自分が心地よければそれでいいと思っている。
楽しければ、幸せなら嘘でも構わない・・・
だから霊懸かりがウヨウヨした世界となってしまっているわけである。
「スピリチュアル」という言葉にある言霊は、そのような響きを持っているのである。
「書」の中にも多くの響きがある。
そこに「神」の響きがあるもの、曲がった響きのもの。
そんな「響き」も感じ取れなければ、「神」の言霊など選り分けることなど出来ない。
神の言霊は「カミナリ」のごときものであり、そのエネルギーは「龍」のように障害物をも破壊して真っ直ぐに貫くエネルギーを持っている。
人の情に合わせて右に左に曲がりくねるようなことはない。
それは神の言葉ではなく人の言葉であり、何らかの霊の言葉でしかない。
間違うのは自分の心の曇りゆえ。
嘘でも良いから喜ばせてほしいと願う心ゆえ。
喜びばかり求めるのは「歪み」そのものを産む。
だが人はその「歪み」を求めている。
だから世界は霊懸かりであふれかえっているのである。
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