預言と呪い
私が唯一、いや唯二つ信頼に足ると思える『預言』という存在は、大本教の出口なおさんの『お筆先』と、岡本天明氏の『お筆先』の二つである。
理由は簡単。
それは『人の意』が介在しないものだからである。
私は根っこが探偵である。
だからとことん『疑う』。
疑うと言うことは「否定」することではなく「わからないものはわからない」とハッキリしておくことである。
だから「盲信」することがない。
自らに降りてくる言霊も疑う。
その言霊は『どこから』来るものか?
誰が、何の目的で降ろしてくるのか?
言霊を降ろしてくる者はけっして一つの存在では無い。
連続した言霊の中にも別の者の意が簡単に混じり込む。
エネルギーが変化し、言葉が変化し、意図も変化する。
そして何より「自分の思考」が混じり込む。
その微細な変化を察知した瞬間に『終わり』にしなければならない。
そのままだらだらと続ければ、最初の言霊の意図は途中で曲げられてしまうのである。
それほど曖昧なものなので、明確な線引きを示すことが難しい。
自分ではわかっても、それを他者に示すのは困難である。
だから、信頼できるものと言えば「意図」が介在出来ない『お筆先』なのである。
だから、『お筆先』と『それ以外』は別物なのである。
そしてもうひとう。
出口王仁三郎氏の言葉や教えの数々は、私にとっては「答え合わせ」のようなものとなっている。
自分の身に起きた出来事、そして様々な導きを追求していくと、「それはこうである」というふうに答えにたどり着いたとき、いつもそれが出口王仁三郎氏の言葉であり、それによって自分自身が「審神者」出来て整合性がとれるわけである。
同氏の難解な教えは、きっと先に読んだとしても「へえ~、そんなものか・・・」というふうに、わかったようなわからないような・・・ただ知識として得るだけのものとなってしまうが、経験した後にその言葉や教えに出くわすので、「あっ、そういうことか」とあっさりと腑に落ちるわけである。
世の中には「預言書」として、意図して書かれたものも多い。
だがそれは本当に『預言書』であるのか?
『預言書』に書かれたことが次々と起こるのか、それとも『預言書』に書かれていることを次々に『起こして』いるのか?
私は疑う。
『預言書』という『呪いの書』なのではないのかと。
『預言(予言)』と『呪い』は紙一重である。
非常に危険なものなのである。
どちらも『印象操作』されるものだからである。
「引き寄せ」とも呼べる。
あらかじめ「こうなる」と宣言することで、そちらに引き寄せられていく・・・というものだ。
それが値打ちのある『預言書』ともなれば、それを実行するための「大義名分」が立つわけである。
高尚な書であればあるほど、その大義名分は大きなものとなる。
だから「意図して書かれた」可能性のあるものは危険なのである。
水が地形に準じて流れて「川」となるように、未来も現状という地形に準じて流れる。
地形の変化で川の流れが変わるように、現状の変化で未来へと流れる「運命」も変化する。
不確定要素が多いときは、まだ変化の余地は残されているが、不確定だった要素が固まって確定的になればなるほど「流れ」を変えるのは難しくなる。
川の流れを変える土木工事のようなものを、未来へ続く流れにも応用しているのである。
そんなものの中に『預言書』というものもある。
だがそれは『預言』(言葉を預かる)ではなく『予言』(予め言葉を伝える)という『呪い』の要素を含んでいる。
だから注意せねばならない。
予言が「当たっている」と思ったときほど注意が必要である。
神の言葉であるはずの『預言』が、『呪い』に利用されるのである。
『預言』と『予言』の違い。
さらに、それらの多くの書と『お筆先』の違い。
その大きな違いに気付かねば間違うばかりなのである。
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