大善神

画像:ウィキペディアより



4年前に自分の身に【瀬織津姫】が現れてから数週間ほど経ったとき、ある知人にこう話した。

「これは龍宮の乙姫だ」と。

全く何の根拠無い言葉であった。

瀬織津姫がどんな存在かもほとんど知らないときに漫然と思ったことであった。

だから根拠を探してみたが、両神を繋ぐものは無い。


また醸し出すエネルギーも違う。

だがそれは「現れの違い」として今は理解できる。

荒魂と和魂は真逆の性質であるが元来同じものである。

だから同じであるとも違うとも答えを出さずに置いてきた。




だが、近頃やたらと現れる。

自分の中の【火】として現れるのである。

その意味が何であるのかを考えたとき、その現れは【瀬織津姫】のものと同じである。

エネルギーは全く違うが現れ方は同じである。

自分の真ん中に違う神が居座ることは無い。

一人に一つの柱

それが理(ことわり)である。

考えられるのは一つ

荒魂と和魂の違いしかないということである。







仏法とは仏陀以降に生まれた言葉

そもそも仏(ぶつ・ほとけ)とは「悟った者」の意である。

仏陀(悟りし者)と呼ばれるゴータマ・シッダルータというシャキーラ族(釈迦族)の王は、そもそも【何】を語ったのであろうか?

「仏教」という「教義」のレンズを通して見るということは、かなりの色眼鏡を掛けているのだろうと思う。

仏教経典の中にあるものを、そのレンズを通さずに見ると言うことはなかなか至難の業である。

であるがそれをしなければ、仏陀の「瞳」に映ったものを知ることは難しいだろう。



仏陀が生きた時代は、ここ日本では神武天皇の頃か以後100年か200年ほど経った頃か・・・定かでは無い。

その頃世界はどうであったのあろうか?

それを知ることは難しいが、ここ日本はどうだっただろうか?


ニギハヤヒによる統治

実際にニギハヤヒ大王が居たのか・・・いや、後代となっていただろう。

ニギハヤヒ大王と三十二柱の防人による統治

それがどれほどの年月か続いていたのだと思う。

数百年か数千年か・・・・

だが、その在り方が日本だけでなく世界にあっただろう。




忉利天(とうりてん)

三十三天とも言う「須彌山(しゅみせん)」の頂上にあるという【帝釈天】のいる天界であり、六欲天の第2天である。

三十三天とは「帝釈天と三十二天」

これはニギハヤヒと三十二柱である。


別にこじつけているわけでは無い。

様々な根拠をここで書くにはあまりにも膨大になるので、気になる方はご自身で調べてください。



帝釈天は白象の背に乗る姿で描かれるが、その白象は「アイラーヴァタ」という7つの鼻と4本の牙を持つとされる「霊象」である。

そして、その背に乗るのは【帝釈天】だけではなく【舎脂(シャチー)】という妻神と共に「アイラーヴァタ」の背に乗っている。

画像:ウィキペディアより


さらにこの夫婦神から生まれた息子がいる。

名を「ジャヤンタ(勝利)」という。

「正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」

これが日本での呼び名であろう。


インド神話の中で彼は「カラス」に扮する。

カラスと言えば【賀茂】である。


その賀茂家は中国で玄奘三蔵が弟子たちに仏法を説いていた時代、すでに【役の行者・小角】が現れている。

ちょうど大化の改新の頃である。



その後、インドから仙人と呼ばれる人々も来ていた。

そんな彼らが開基した修験の地に、お寺を建立して「仏教」を被せていった。

この仙道と古神道は同じもの。

だから空海は日本で修した後に中国へ渡り、仏教と集合した密教という仙道を「わずか半年」で持ち帰った。


千数百年前、インドの仙人たちは日本まで来ていた。

そして、この地の「失われた」神々の領域を見つけだしていた。

なぜわざわざ日本にまで来たのか?

それは「須弥山」だからである。

西方浄土と呼ばれる仏国土は中国から見たインドであり、玄奘三蔵が西に向かったからである。

そしてそれは玄奘三蔵以降の歴史の常識であり、それ以前の常識は同じでは無い。


インドの仙人たちは何を元に須弥山を探したのか?

そしてインドでは「須弥山」などという言い方はしない。

彼らが元にしたのはインド神話でありヴェーダである。


ちなみに、その頃の日本ではまだ古事記も日本書紀も書かれては居ない。

記紀以前の事である。

物部氏が滅ぼされる時にホツマツタヱも消えた頃である。

そんなホツマツタヱも竹ノ内文書を見て編纂されたという。

だがそれらは今は置いておく。




話をインド神話に戻す。

そのインド神話と忉利天(とうりてん)

習合され絡まったものを解くと出てきたのがニギハヤヒである。

ニギハヤヒと三十二柱の防人

帝釈天と三十二天

同じものなのである。


須弥山の頂上・忉利天の善見城に住む帝釈天は【梵天】と共に【二大護法善神】と呼ばれる。

六甲山の頂上に坐す【六甲比売大善神】は、須弥山に坐す【護法大善神】なのである。



そして【帝釈天(インドラ)】の妻である【舎脂(シャチー)】

彼女はインド神話ではアスラ神族の王【プローマン】の娘であるとされる。

アスラ神族は「阿修羅」として後に語られることとなる。

つまりは「阿修羅王の娘」ということである。

アスラ神族は天界を追われて、その天界と戦争を起こしている。


このアスラ神族は別の地(北欧神話)では「アースガルド」となる。

アスラもアースガルドも天界と戦争を起こしたという同じ経緯をもっている。

それは「同じ神話」が地域によって語られ方が若干変わっているだけのことであり、その実同じ出来事を後世に残した物語である。

それを日本では【岩戸がくれ】と【誓約(うけい)】の物語として語られる。

アマテラスとスサノオの争い。

つまり【アスラ王(阿修羅王)】はスサノオなのである。

その素戔嗚神の娘は「龍宮の姫」でもある。




提婆達多(だいばだった)

転生を繰り返すたびに釈迦と巡り会う提婆達多

そして巡り会うたびに仲が悪い。

そんな提婆達多も、最後にはみずから地獄に降りて業火に焼かれて自らを戒めたという。

「全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します」と言って自ら無間地獄へと入っていった。


それが【乙姫】であると出口王仁三郎氏は言った。

無間地獄から出てきて真っ先に【国之常立神】に帰依し、立て替えの神業に真っ先に乗り出したという。

その乙姫が最近やたらと現れるのは、立て替えの真っ最中であるからだ。

その乙姫殿は太陽神の妻神になったと出口王仁三郎氏は言った。

そして「玉依姫」であるとも言っている。


私的には豊玉姫と乙姫は見事にマッチするのであるが、玉依姫は真逆な印象であったから、なかなか一致しなかった。

だが、荒魂と和魂であれば納得出来る。

つまりは私自身の認識が【乙姫】イコール【荒々しい】となっている。

だがそれは結局の所「現れの一面」であったわけである。

自ら印象を作ってしまったものに囚われてしまったために、かえってたどり着けなかったということだろう。

だから、何も知らなかった4年前の方が的を射ていたわけである。



名は「現れ」の一時的な印(しるし)でしかない。

そして、時と場所により変わる。




話を仏陀に戻す。

仏陀が生まれてすぐに、母である摩耶夫人は亡くなった。

その後、母の妹と言われる【摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい)】に育てられた。

それは、豊玉姫の子供を玉依姫が育てた神話に重ねられる。

転生のたびに巡り会う仏陀と提婆達多。

「生命のあらんかぎり帰依する」と誓った提婆達多は、母を亡くした仏陀に愛情を注ぎ育てたのかもしれない。

表題の画像は仏陀を抱く摩訶波闍波提である。

まるで聖母マリアがイエスを抱いているようである。

豊玉姫に変わり鵜葺草葺不合命を抱く玉依姫も、こんな優しい姿だったのかもしれない。





神界、霊界、現界の三界に渡る物語は、交叉し繋がり紡がれている。

どれがどの世界とは一切記されない。

だが、縺れ分かれた物語は、再びひとつに戻らんとしている。

視野を縦にも横にも広げて見なければ見えてはこない。




三界共和する世界は、きっちりと【型】を出さなければならない。

出さなければ「別のカタチ」で現れる。

それは時に大きな災いとなって現れる。

だから【型】に映し出して流すのである。


大難を小難にするためには、人々が自らの内に【型】を出さなければならない。

だがそれは遅々として進んではいない。




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