『答えはひとつ』のパラダイム
『答え』とは思考による【選択】の帰結である。
だが人はこの【選択】の部分を見落とす。
それは『答えはひとつ』というパラダムの幻想に囚われているからである。
例えば「科学的エビデンス」などという言葉が使われたとき、人は完全に『答えはひとつ』というパラダイムという幻想に支配される。
科学的エビデンスの中にもやはり【選択】というものがある。
そしてその【選択】の先に帰結した場所が【答え】となり【エビデンス】となっているに過ぎない。
それは【選択】の部分が違えば「違う答えに帰結する」のである。
人は誰しも思考や行動をする際に必ず【選択】をしている。
だから十人十色様々な人がいるわけである。
それは
何を重視し何を軽視するか
という【選択】の違いから来る『帰結』なのである。
だから『答え』が「正しいか否か」というものは無い。
帰結した『答え』は、何を重視し何を軽視した先の帰結であるのか?
ということが重要なのである。
人それぞれ自分の人生に於いて重要視しているものが違う。
そして、これは軽視しても自分にとって問題がないから軽視する。
だから重視するものという「情報」を思考し帰結した姿が『個性』なのである。
人の個性に正しい『答え』などあろうはずもない。
頭の善し悪しも同じ事。
重視するもの、軽視するものが違うだけである。
だから、今「頭が良い」と言われている人は、何を重視して何を軽視しているのか?
そういうことなのである。
それは「科学的エビデンス」といえども同じである。
何を重視し何を軽視した先の帰結か?
ということなのである。
だから『答え』が正しいかどうかは問題ではない。
大切なのは【選択】の部分である。
自分が重視しているものを軽視して帰結した答えは自分にはそぐわない。
その逆もまた然り。
世間の「議論」を見ていると、はじめから【選択】が真逆であるのに、そこは無視して『答え』の議論ばかりをしている。
不毛な議論である。
さらには『どちらか一つに決めねばならない』という「答えはひとつのパラダイム」に囚われているから、最終的には『強権的』となるわけである。
「強い方の意を通す」
それが世界の現実である。
いくら選挙をしようが、いくら議論をしようが、最終的には『強権発動』となる。
「それなら初めから強権発動すればいい」
といことで世界はそこへ向かっているのである。
人は「自分が重視しているもの」をあまり理解していない。
ほぼ無意識的に思考の中に入り込んできている。
そして、自分が何故それを重視しているかの理由も知らない。
だからそれをしっかりと見なければならないのである。
自分が大切としているもの
けっして譲れないもの
それが何なのか?
しっかりと洗濯(選択)すべきなのである。
失ってからでは取り戻せないのであるぞ。
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