身魂の結び




2020年初頭より始まったコロナ禍において世界中の人はすべからく『選択(洗濯)』の洗礼を受けた。

その選択は自らの未来を分かつ『分岐点』であった。

そしてほとんどの人が「最初の選択」をした道の先を歩いている。

そして年月が経つにつれて『分かれた道』の隔たりは大きくなり続けている。


【柱】を持っているものは選択を迷わない。

だが【柱】無きものは選択のたびに迷う。

周りを見て、現象を見て、流れを見て、空気を見て・・・・常に迷う。


選択した後でも迷う。

「これでよかったのだろうか?」

確信を持てない。

持てないから周りを見る。

そして迷う。


【確信】とは「答え」ではない。

「真実」でもない。

ただ『自分である』ということの揺るがない『自己信頼』である。


『自分を尊び自分が決めた自分の道を進む』

ということだけである。

そこには「正解」などない。


だが人は「正解」を探そうとする。

「どっちに行くのが正解だろうか?」と・・・・

自分の中にあるはずの「答え」を外に求めて、『自分が進みたい道』とは違った選択をしてしまう。



多くの人は「自分」ではなく「誰か」の「正解」を求めて、そちらの道を選択していった。

自らの人生や生命に関わる決断を「誰かの正解」に委ねたのである。

それはもはや『自分が無い』ということである。


そして、その後の「選択」も同じように為されてゆく。

その選択の基準は恐らく

「自分の気分が安心できて落ち着く方」

なのだろう。

だが、選択した後も落ち着かない。

何せ「自分」で決めていないのだから当然である。

そして、自分で決めていないから、その選択が気に入らなかったとき、誰かのせいにする。

自らの『目』を信用せず、誰かの『目』に【軸】を置き選択しているのである。



もしこれが『とっさに決断しなければならない状況』であったらどうなるだろうか?

とっさには「答え」は見つからない。

だから『パニック』になるのである。



【柱】の有るものと無いもの。

その違いは【肚】の座り方の違いである。

決めたらあとは真っ直ぐ進む。

狼狽えず省みず進むだけである。


自分の選択が正解か間違いかは『問い』によって変わる。

迷うか迷わないかは『自分への問い』が出来ているかどうかである。

その自らへの『問い』に対する『答え』が決まっているかどうかなのである。

誰かに問うて「答え」を得るのではない。

問うのは自分自身。

自らの『本心』に問うのである。

自らの『魂』に問うのである。


自らの感情に左右され『問うている』などと言うは詭弁である。

怒りに流された選択や、恐れに流された選択は、自らの『魂』にまで『問い』は届いていない。


自らの魂に触れ、自らの魂に問い、自らの魂の選択という【柱】を得たものが『大和魂』である。




外国人は日本人のこの【柱】を恐れた。

座った【肚】を恐れた。

だから明治維新以降「薩摩隼人」を最も恐れた。

そして日本の中枢より廃していったのであろう。


長い年月を掛けて日本人の軸を【肚】から【頭】へと変えていった。

そういう意味では薩摩人よりも長州人のほうがやりやすかったのであろう。

愚鈍となれる薩摩人と利発な長州人では、当然長州人のほうがコントロールしやすい。

【肚】で決断し行動する人間は、詭弁や利では動かせない。

だからやっかいなのである。



今では「利発こそ正義」となっている日本。

「馬鹿」と思われることを恐れるばかりである。

だから人の目から見た「正解」ばかり求める。

愚かで馬鹿な人間と見られないために。

そして、そんなもののために「自分」を見失ってしまった「賢き幼児」ばかりである。


もはや日本は恐るるに足らず・・・・

そう思われていることであろう。




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