【常在戦場】 ~真実に気付くだけで「何もしなければ」気付かないのと同じ事




ただ、真実に「気付けば」良いわけではないということを、真実を語るものたちは知っているのであろうか?

真実に気付いても「何も出来なければ」気付かないのと同じであるのに。


薄々気付いてはいるが「知らないふり」を通しているものたちがどれほど多いことか・・・

たとえ気付いたとしても、最終的には大勢に従うだけ。


「そんなことはない」と今は思っているだろうが、いざその時になって自分は本当に「抵抗」し続けることが出来るのか?


「ワクチンは打たなかった」

そんなものは序章の練習でしか無い。

今までのように緩やかなものではなく、本番はもっと押しが強くなる。

CDC(米疾病対策センター)の日本支部がやがて出来て、WHOの日本支部もやがて出来て、モデルナは日本でワクチンを生産することになる。

すでにこの先の10年分を買えと押し売りしている。


抵抗していた保守の筆頭は「銃殺」され、残った組織は「カルト嫌疑」を掛けられ押し込まれ続けている。


ワクチン一つとってもこれである。

「気付いた」からといってそれで何が出来る?

今回のように「逃げられる」と思っているのか?



以前、予言したとおり現在「日本買い」が始まっている。

コロナによる不景気と円安によって「たたき売り」状態が現出している。


押し寄せる敵に「気付いた」から何だ?

気付いたら攻め寄せる敵は下がってくれると思っているのか?



かつて「元弘の乱」のとき、いきなりモンゴル軍に上陸され攻められた対馬は「壊滅」した。

その情報を得て鎌倉武士達は「準備」をした。

海岸線に防波堤を築き、押し寄せてきた敵に対して「こちらから」攻めていった。

だから防げた。

もし武士達が対馬に現れたモンゴルの大軍に恐れをなして何もしなければ、日本はモンゴルの統治下に入っていただろう。


気付くだけではどうにもならない。

「手を打つ」ということをしなければ、気付こうが気付くまいが結果は同じ事である。


「気付き」が得られたと満足しているものたち。

「気付き」はただの「始まり」である。

「成す」ことがあるという「気付き」である。

それはゴールなどではない。



「気付いて目覚めた」と言って、いつまで布団の中にいるのか?



真実に 気付くだけでは 意味が無い

動いて神の 手足と成り鳴る


布団の中でいつまで自己満足に浸っているのか?

すでに攻撃されているというのに・・・



さっさと「今までの当たり前」を手放すことである。



目覚めた

覚醒した

気付いた

と言うなら、

愛だ

光だ

と言うなら、その手には闇夜を照らす松明があるはずである。

それが本物ならば・・・








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