仏陀の旅




仏陀の旅の始まりは、貧困に喘ぎ、病に冒され、亡者のように生きている人を見た時に始まった。

なんの苦労も無く豊かな生活が「当たり前」だと思っていた釈迦族の王子が、初めて知った「現実」の世界の有り様にショックを受けて、自らを省みて「改心」して旅に出た。

それは「知る」ための旅。

彼は「知る」ために必要な「体験」をするため、家を捨て、王宮を捨て、妻子を捨て、「貧苦」を「経験」するために旅立った。


きっと、旅立つ前にも「救う」手立ては無いかと思案したことだろう。

しかしそれが見つからなかったから、そこへ自ら降りていって「救う道」を探そうとした。


「苦しみとは何だ?」

苦しみなど皆無のような生活をしていた仏陀は、そこから知る必要があった。

そして、苦しみの大元は「生・老・病・死」がもたらすものだという答えに至った。


「生とは?老いとは?病とは?死とは?何だ?」

それを知るため、「体験」するための日々が「苦行」と人目には映るのであるが、本人は「知りたい」一身で日々「経験」の道を一歩ずつ進めていたに過ぎない。

飢えの苦しみを日々見つめ

身体が思うようにならない苦しみを日々見つめ

このまま老いて朽ち果ててゆく自分の思いを見つめ

心と身体が変化する様を見つめ

見つめ続けた極みの先に、ようやく「浄土」を見つけた。


そこから見晴らす景色は、世界が一変した如く見える。

その世界の様相を語ったのが「経典」である。

だがそれは、語っただけでは伝わらない。

ただの「方便」にしかすぎないことを彼は知っていた。


「そこ(浄土)の景色を見るには、そこへ行くしか無い。」


いくら方便を聞いて想像したところで、そこへは至れないのである。

だが、そこへ至るには強烈な「一念」が必要であり、仏陀は「救う道」を「知る」という「一念」のために「体験」を繰り返し続けたわけである。

そうして自らが「生・老・病・死」の苦しみから「解放された」という『確かな体験』をもって、ようやく「一念」を成就した。


仏陀の智慧は「経験」に確と裏付けされたものである。

自ら体験する病の苦しみ、死の淵での孤独と恐れ、避けられぬ老いを前に、生とは何かを問い続けた末にたどり着いたものである。

だから、いくら経典を読んでも唱えても「浄土」へは行けぬ。

読んで知った「つもり」になっていても、そこは「浄土」ではない。

自ら「行っていない」から確かな案内も出来ぬ。

行っていないから案内を間違う。


「行く」ということは「知る」こと。

「知る」ということは「経験」すること。

現地に行って確かめる・・・

ただそれだけのことである。


「経験」という中の「極み」で得られた宝。

それが「智慧」


「教え」ではけっしてたどり着けないのである。

自ら行って「経験」の中で「探し求め」なければ見つからないのである。



般若心経が尊いのは、そのことを「確」と伝えているからである。


色即是空 空即是色も「体験」しなければわからない。

言葉でいくら説明されようともわからない。

だから「経験」という山に登り「頂上」を極めろと言うのである。