日和見リーダー




日和見のリーダーは、口をそろえるように『賢い』という言葉を使う。

「誰それは賢い」

「それ頭良い」

「あいつは馬鹿だ」

「愚かだ」

正負二分で振り分ける癖は思考のための「単純化」だろう。

だがそれだけでは無いものが潜在意識に潜んでいる。

「日和見な自分に対する情けの言葉」である。

「長いものに巻かれる」生き方をしている自分を知っている。

自分より強い者には「従順」であり、弱ければ勝算を加味して後に襲いかかる。

けっしてけなしているのでは無い。

これが「日和見」の性である。


「長いものに巻かれ世渡り上手にしていれば賢いのに・・・」

「世渡りをうまく出来ない馬鹿だな・・・」


これが「賢い」「馬鹿」に二分した言葉。

この言葉が染みついている。


他者に対して言うというよりも、自分に対して「賢い」「馬鹿」と言葉で振り分けることで、自身の「正当性」を担保しているようである。


だが、人口の八割方は「日和見」である。

だから八割方の人間は共感する。



この「日和見」はほぼ「損」する生き方は選ばない。

「どちらが得か」が行動基準の根幹にある。

それを「旗」を掲げて「こっちが得」「あっちは損」と指し示すのが『日和見リーダー』

それを昨今では『インフルエンサー』と言う。


このインフルエンサーはビジネスでは手腕を発揮する。

だが「国家運営」はけっして出来ない。

なぜなら『日和見』であるからだ。

日和見とは「戦っている誰かの勝ち負け」を見極めて『勝ち馬に乗る』ものだからである。

これは「商売」では常道であるが、これが国家の先頭に立てばドえらいことになる。

およそ「曲げられぬ信念」というものが無く、「哲学」というものを持たない。

いや、あるとすれば「勝ち馬に乗る」ということであり、自らが目立って先頭に立ち、矢面に立つようなことはしないからだ。

それは彼らにとって「馬鹿」だからである。

それは恐らく「学校」という社会の中で、「会社」という組織の中で、「国家」という枠組みの中で「いかに上手く」立ち回るかというのを主眼に置いてきたからであろう。

「ホワイトカラー」という「自らの色彩を持たぬ」ことが基本であり、「大勢」に染まってゆく姿勢を持つ者たちだからである。

一見、穏やかで人当たりは良いが、いつでも「手のひら」を還す。

そしてそれを「賢さ」という言葉で言い表す。



そんな普段は穏やかな彼らも、「主人」がひとたび鞭を振るえば「猟犬」となって襲いかかる。

主人の意向をうかがいながら、家畜をコントロールする「犬たち」のように、群れを逸脱する家畜に対して主人の鞭で獰猛さをあらわにする。

だがそれは「言われたから仕方なしに」という言い訳を自分に与えるために、再び「賢い」という言葉を使う。

それが日和見の先頭に立つリーダーの役目。



そんな「ホワイトカラー」が国家の指導者となっているのが日本である。

「強者」である「主人」に仕えるのが基本の『日和見リーダー』が、一体誰を「主人」としているのか?

とりたてて悪いことをしてこなかったものを「善人」と決めてかかり、黒いシミが無い「ホワイトカラー」を国のトップに押し上げているのは、やはり同じ「八割方のホワイトカラー」なのである。

人間の八割方は「日和見」である。

だから「選挙」をすればそうなる。

「みんなこっち」という魔法の言葉で、「賢い」という罪悪感を打ち消す言葉で、「日和見」たちはついていく。

「おや?おかしいぞ」と思って立ち止まったら、主人の鞭で「猟犬」が襲いかかり追い立てる。



気付けば日本は犬だらけ。

リーダー達が犬だらけ。

鼻が利くので商売繁盛。

戦後教育の申し子である彼らは、「餌をくれる」主人に理想の忠犬となった。


彼らは主人の意向次第で赤にでも青にでも黒にでも染まる。

いつでも染まれるように「白」なのである。



別に日和見でもいいのである。

ただ、「居てはいけない場所」というものがある。



悪玉菌に支配された日本という体の腸内は、悪玉菌に従う日和見菌で、腸内環境は悪化している。

善玉菌を投入しても「日和見菌」がかき消してゆく。

日々善玉菌は減ってゆき、日和見菌に置き換えられゆく。

こんなとき、人なら自分の「腸内」をどうする?



日本という「体」に住まう「国津神」は、蝕まれ行く自らの体を放っておくわけがなし。

「国津神」の訴えを「天津神」が聞かぬわけはなし。


だから「改心しろ」と100年も神々は言っているのである。

善玉菌は日々減り続け、腸内環境は今や最悪である。

腸内が「日和見菌」しか居なくなれば、かれらは自分たちが「どちらへ行けばいいか」わからないのである。

「風」が吹いてくれなければ、方向転換出来ない「風見鶏」であるから。

自ら「風」を吹かせることは出来ないのである。

そして、より強い「風」の方を向く。

それが善であれ悪であれ。

それが彼らの哲学。

それが彼らの「賢さ」。


日和見は日和見であるが故に日和見で在れるようにする。

日本が主人の一部になれば、安心して日和見で在れる。

そうして世界はひとつにまとまってゆく。

国が自らの体を差し出してゆく。

日和見が日和見であるために・・・・・・


「だって、そのほうが賢いじゃん。」


そして、それが今の日本のリーダー達である。