『新世界』 ~「神政」戻りし世界秩序




新たな世界へ向かうため、人類は大変革を迎える。

その変化はおそらくかつて無いほどの大きな変化となるだろう。

人類が「気付いていながら」目を背けてきたもの。


「愛」と「誠」


それが大切であることはわかっていながら、そこに向かえない歴史を連綿と続けてきた。

心の奥底ではそれを求めながら、表層意識は怠惰と悦楽に染まり、その欲望に「愛」の仮面を被せ、そうやって自らの心の責めから逃れ続けてきた。


やがてくる【新世界】は、いくら目を背けようと、逃れようと、けっして逃げることは出来ない。

いくら表面を取り繕おうとも、心の奥底から強烈に責め苛まれる。


「愛」と「誠」の世界

それを恐れて人々は逃げ惑う。


自らの心が自らを「光」をもって焼き尽くす。

後生大事に握って放さぬ「穢れ」を、その心身ごと焼き尽くす。



多くの人が「改心」出来ていれば、変化の波は小さく押さえられる。

だが、この瀬戸際に至っても尚、握って手放せぬ。

その執着が変化の難を大きくするのである。




未来は愛が溢れる世界と人は言う。

だがその語られる「愛」は未だに「仮面」である。

欲望に、執着に理屈してねじ曲げた「愛」の仮面。

そんなものを握っているから変革の大峠が「大難」となるのである。


執着ゆえ争い、争うゆえ穢れが溢れる。




終わり行くものを未だ手放せぬ人々は、再び理屈して「未来」の在り方をねじ曲げる。


食料が確保できぬからといって争い、必死で蓄え始める。

資産を守らなければと、必死で知恵を絞り防衛に努める。

資源が足りないと、奪い合いになる。

結局、その頭の中は、終わり行く世界に囚われたまま、過去を握って放せぬままである。

それゆえ大難となるであろう。



人は必死に抵抗している。

何に抵抗しているか?

押し寄せる「光」に抵抗しているのである。

「愛」の兆しに怯え抵抗しているのである。




人類は長い長い間「主催神」の居ない世界で「神」を祀り生きてきた。

地球そのものを統治する柱である【神】の居ない世界で、別の存在を【神】として委ねてきた。

だが、「小さき神」では世界の柱たり得ず、混乱は増すばかり。

やがて「何が神」かもわからなくなり、人の知恵で神を作り出していった。

神を偽り、神をねじ曲げ、そうして混乱する人を表面的に鎮めていった。

だがそんなもので鎮まるはずもなく・・・

この世紀末に至っては、もはや誰もが勝手に「神」を語る世界に成り果てた。

神を歪めた「穢れ」が極限にまで広がったということである。



そこに【主催神】が現れる。

「愛」と「誠」をもって統治するために現れる。

その『現れ』が出始めたから人々は恐れおののいている。

心の奥底から響いてくる「愛」の響きに恐れおののいている。




「神事」は「穢れ」を許さぬ。

だが人は長い間「穢れ」を「許す」ことに「愛」の仮面を被せてきた。

だから未だに「神」の前で平気で「穢れ」をまき散らす。

愛おしい「穢れ」を「愛」だと言い、神を汚し神事を汚す。

だから恐ろしいのである。



「愛」の世界は「穢れ」というものの無い世界である。

神の世界そのもの、仏の世界そのものである。

それが「愛」の世界。

だが人は「穢れ」を握って放せぬ。

人の守護神、守護霊に至っても「穢れ」を愛しむ。

だから未だに手放せない。



「愛」と「誠」の弥勒の世界はもうそこまで来ている。

そして多くの人は「愛」と「誠」をかつての世界にあった「愛の仮面」ととり違えている。

取り違えたまま先へ進もうとしている。

だから大峠が「大難」になるのである。




世界は大きく変化をしている。

だが、今、変化を先取ったように振る舞っているものは、かつての世界の最後の「名残り」でしかない。

新たな世界へ移行すれば消えてゆくだろう。

終わり行く世界を名残惜しむように。



来る「愛」の世界の「愛」は、今まで思い込んでいた「愛」と違うことに慄き、人々は必死に抵抗するであろう。

穢れを許してくれる愛ではないと知り、必死に抵抗するであろう。

偽りの善の仮面を剥ぎ取られ、偽りの愛の仮面を剥ぎ取られゆく苦しさに、必死に抵抗するだろう。



長い間人が祀ってきた神は「人のための神」である。

だが地球の主催神は「地球上すべてのものの神」である。

「愛」そものの本質が違うのである。

地球の人の愛という小さい世界だけの愛ではない。

宇宙の愛という大きな愛なのである。


愛という言葉に囚われ、かつての常識の愛に囚われて、「宇宙の愛」という大きな愛は想像もつかない。


誠の神が語る愛は「宇宙の愛」である。

けっして「人間だけの愛」など語らない。

人間だけの人間的な神を勝手に生みだし、いとも簡単に神となって人々に「人間愛」ばかり語るまがい物達。

どれほど神を汚しているのかわかっているのであろうか?

人間愛というちっぽけな人間にばかり都合の良い「愛」が、どれほど穢れたものか理解していないだろう。



人間愛にばかり執着していれば、いずれ、誠の愛の光に焼かれることになる。

それを「手放せ」と言って手放すものはほとんど居ない。

長い年月をかけて「最も心地良い形」に仕上がった「人間愛」という仮面は、それを語る者にとっても、聞く者にとっても「媚薬」となっている。

だから宗教というものが歪んでしまった。

仏陀が歪み、イエスが歪み、かつての神々も歪められた。



愛と誠が柱となる新世界

宇宙意識に目覚める者が先導する。

それは「宇宙の愛」を柱としたもの。

「人類愛」という人間にだけ都合の良い愛は終わりを迎える。



目覚めた目覚めたと言いながら「人間愛」ばかり語る者らよ。

誠の光に焼かれる前に改めよ。

宇宙意識に目覚めたなら、宇宙の愛が何であるかわかるはずである。

善も悪も赦されるという誠の意味がわかるはずである。

だがそれも「宇宙善」であり「宇宙悪」である。

人間の善悪という小さなものではない。

神が「悪を赦す」というとき、人間がなにものかに害されることも赦している。

だが、かつてなら「人間を害するものは赦されない悪」とされた。

そして人は多くのものを破壊していった。



まだわからぬか?

新たな世界の神の器の大きさが、今までの神とは天地の差なのである。

愛も、喜びも、善も、悪も、その基準が天地の差なのである。

人間世界だけの神という器の小さな神から、「誠の神」が柱になるとは「絶対基準」が変わると言うことなのである。

だから全て手放せ、委ねよというのである。

過去の「柱」を握ったままでは新たな「柱」は立たぬ。



今、自分が追いかけている「愛」は何であるか?

喜びは?善悪は?


それらはすべて過去のものである。

過去の産物を握っている限り、新しい世界へ向かえるわけがないのである。


愛の言葉を求め、愛の言葉を語ってはいるが、それらはすべて過去の消えゆくもの。

喜びを、幸せを追い求めているが、それらもすべて過去の消えゆくもの。

新たな「神政」の世界では喜びも幸せも、その基準が。「柱」が違う。

過去のものは新世界では「穢れ」となる。



守護神も、守護霊も、小さき「人の神々」も、過去を握って放さぬ。

古いままの心で、古いままの欲は「浄化」せねばならないのである。

新しい世界の「基準」という「柱」を心に迎えるため、浄化せねばならないのである。

そのまま新世界へ渡るなら、それは「亡者」となる。

新たな世界の「愛」に抵抗する「亡者」となるだけである。

それゆえ世界は「大難」を迎えるのである。



やがて光は心の奥底から湧き出でる。

そこから逃れることは出来ない。

ゆえに、はや「改心」されよ。

誠の神に「改心」して柱を立て直されよ。

いつまでも人の世界という小さな幻想に囚われず、宇宙の目で世界を見て、人を見よ。

人間から世界を、宇宙を見るのでは無い。

宇宙から世界を見て、人間を見よ。

そこから見た「愛」は如何なるものであるか?


それが「新世界」の「愛」である。




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