残穢





今日、たまたま『元看護師さん』という初対面の人と話をする機会があり、『リラクゼーション』の仕事をしているという話をしたところ、何故か彼女は私の『ヒーラー体質』に気付いた。

そこで話をしていたら、『看護師目線』というもので自分の『体質』を客観的に捉えることが出来たと思う。

彼女が見抜いたのは私の『浄化体質』というものである。

相手の『不具合』を吸収して浄化することを何故かわかったようである。

さらに、身体の不具合を『写し取る』ことも理解していたので正直驚いた。

そして、彼女曰く『それは相当なストレスでしょう。何せ相手のストレスを吸収するのですから・・・』と。


恐らく彼女も『同種』なのだと気付いた。

こちらも「楽」になっていたからだ。


理解してくれる人だと話が早い。



そして何故か昔話へと話が進んで行く。

さすが相手も「ヒーラー」だと思った。

「探偵時代」の話をすると興味津々で喜んで聞く。




そんな「昔話」をしながら思った。

「我ながら自由な人生を送ってきているな」・・・と。


だがそこで「おや?」と気付いた。

「すべての人が自らの自由な選択の先に今という未来に立っている」ということである。

つまりは私だけが自由な人生を送っている訳では無い。

『人は皆すべからく自由な人生を選択している』ということだ。


ただし、多くの人は『自由』を履き違えている。

自由とは「与えられた環境の中で選択する自由」であって、「何でも出来る」「何でもしていい」というのが自由ではない。

個体差、肉体差、環境差という個別の『区別』があり、その枠の中で自由な選択があるということである。

たとえそれが『二者択一』の狭い選択であるにしろ、そこには『選択の自由』が常に存在する。

『それしか選べない』という思いは【意識の逃避】である。


たとえどんな状況であれ『選択肢』は存在し、その『選択』に対して真摯に向き合うことが『自己愛』というものである。

それは、自分の行動に、自分の未来に対する『愛』である。

『選択』を投げ出し誰かのせいに、何かのせいにする時、そこには自分に対する『愛』はない。

『愛』を「投げ出した」ということである。


ここ三年弱の世界の状況は、真に人々に『愛』を問うていた。

『自分を投げ出さない』

それがここ三年弱で現れた『愛』である。



自らの『選択』を誇れるか?

それが『愛』の証しである。

「あのときこうしていれば・・・」という後悔は『愛』無き証しである。


そして、自分に対して『愛』を投げ出す者が、どうして他者を『愛せる』というのか?


一瞬一瞬『選択』という『愛』が求められる中、「身・口・意」一致して選択し、行動し、未来へ自分を送り届けているか?


『誠はあるか?』

その【神】の問いの答えはもう出ているだろう。


後悔という「名残り」があるのなら、早『洗濯』することである。

『洗濯』は『選択』を【洗う】のである。


『誠はあるか?』

自らに問うて自らに応えていかなければならない。

「名残り」という「残穢」の『穢れ』を祓わなければならない。




ここ最近の私の「体調不良」は、多くの人の「残穢」の多さが影響している。

そのことに気付けた日であった。




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