水に映る月 ~身体は心の「水鏡」 《癒奏術・水月抄》
人の身体は水鏡
凪の水面に天を映す
人の身体のほとんどは『水』である。
ゆえに『映る』のである。
人の心は身体の『水』に顕著に『映る』
心がざわついていれば『水』もざわつく。
心の在り方そのままが『水の結晶』の姿となる。
ゆえに『水の質』が変わり、身体から発せられる『波動』が変わる。
愛に満ちたる『結晶』と 憂いに満ちたる『結晶』は
細胞一つ一つに影響を与えゆく。
ゆえに『病』が起こったなら、心を入れ替え水を入れ替えよ。
身体の水の結晶を整えて、細胞一つ一つを『愛』で満たせ。
身体の『水』は他者の心をも映す。
そして身体の『水の結晶』をも映す。
映せば映り、移り来る。
ゆえに心の『有り様』は我が身の如く映る。
どんなに言葉を飾れども、どんなに愛想を振りまけども、それらすべてに『波動』が乗る。
ゆえに『誠』か否かは火を見るよりも明らかである。
新月満月、大潮小潮
豊玉姫と玉依姫が『月』の満ち欠けでそれを告げる。
大潮で潮が満ちる時、水の結晶がおおいに暴れる。
その時心がざわつくならば、水の結晶はざらつき、波動はざわめいている。
『月』に映った穢れを祓い、禊いで水を綺麗にすべし。
ゆえに身体の文字には『月』がある。
心の有り様は五臓六腑に映る。
驚きは腎に
怒りは肝に
思いは脾に
悲しみは肺に
喜びは心に
全ては在りて在る感情
感情に善悪は無い
ただ「巡らぬ」滞留が『悪(灰汁)』を生む。
その『灰汁』が心を痛め身体を痛める。
怒りの『灰汁』は怒りの『結晶』
血の一滴まで『刺々しい』
ゆえに喜びばかり追いかけて、心の臓に『灰汁』が溜まり
「失う」恐れに思い悩まされ、やがて脾臓を痛めゆく
心(シン)と身(シン)は日月の理
厳の心と瑞の身
厳の有り様がそのまま瑞の姿なり
心の波動はそのまま身の波動なり
その身は水なり
水に映りているゆえに 他の水にも映るが道理
おのれの『水』が如何なる姿(結晶)か
それを知らねば映すこと能わず
愛で満たせば水は愛となる
心身潤い波動も潤う
それが『自愛』というものである。
五感の極みの先にある『弥勒の世界』の姿なり
『誠』無き心 隠されぬ すべてが露わとなる世界
五感の極みの岩戸を開いた 菩薩の瞳は浄玻璃の鏡
裸の王様となるなかれ
穢れ(気枯れ)改心いたさねば 菩薩達は皆離れ行く
映りて移るが理(ことわり)なれば
移るを避けて離れ行く
「病は気から」が露わとなりて
あの世と変わらぬ「経綸(しくみ)」となるなり
『次元が上がる』ということは そういうことである。
風の時代の弥勒世は 日月神示の風の巻なり
ひふみ神示 第十四巻 カゼの巻 第十帖
これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ。もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ。肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山あるから、改心六ヶ敷いなれど、我慢してやりて下されよ。時節には時節の事もいたさすぞ。時節結構ぞ。
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