【九分九分九厘の霊懸かり】~アセンションからこぼれ落ちゆく人々 《癒奏術・海神の章》
例えば、幼少期に罹る麻疹や水疱瘡、おたふく風邪などは、人が成長するにあたっての『通過儀礼』のようなものである。
それ(病気)を越える過程で人は『成長』する。
患った本人だけでなく、家族や周りの人、環境も同時に成長するという要素を持っている。
だが人は「苦しみ」を与えるものを【悪】と定義し、そこから得られる多くのものを見ずに排除に走る。
そうして「楽」を得ることがまるで【正義】ででもあるかのように錯覚する。
また、病気というものは自分の体調のバロメーターでもある。
病気により自分の体調の良、不良、免疫の良、不良を知ることが出来るのであるが、そこから逃げ出したために自分の体のことが自分でわからなくなる。
ただただ「無自覚」であり「無症状」であることが『健康』であるという勘違いを起こしている。
苦しみは【悪】で楽は【正義】という単純な思考で多くのものを見落としてしまっているのである。
思考が単純化した人々は、やがてワクチンというものに走り始めた。
「無自覚」で「無症状」でいられる『楽』を得るために、成長をもたらす『苦しみ』という【悪】を遠ざけた。
感染しても無自覚、無症状でいられる『楽』を得るために・・・
感染しているのであるが・・・・それすらも見えない。
そんな感覚の鈍りきった人類に『アセンション』というイベントが始まったわけである。
スピリチュアルの世界に於いても人々は『ワクチン』を欲する。
成長を促す『苦しみ』を避けて、『楽』を得るための『ワクチン』を求める。
それらを【神】に求め、他者に求め、とにかく『楽』へと走り行く。
『楽』になるための『ワクチン』や『特効薬』を求めて彷徨うように、【神】を接種し、【占い】を接種し、【ワーク】を接種し、『接種』することが【正義】であるかのようである。
『接種』することで『アセンション』を【得る】というとんでもない勘違いのまま走り行く。
『ワクチン』や『薬』の接種のし過ぎで無自覚となった人々は「免疫」という本来の人の力を失い、その結果「病原菌」では起こらない様々な病気を抱える。
せっかく「免疫」が反応して体調の「自覚」を促しても、そこから逃げ出すために『接種』する。
そのパターン化した思考と行動は、体のみならず「心」に対しても行われる。
悲しみや辛さや苦しみを乗り越えて初めて「成長」出来るというのに、そこから逃げるために様々なものを『接種』して『楽』へと逃げ出す。
そうして人の心はどんどん【病み(闇)】を抱えることとなる。
しかし『楽』を接種し続けて、自らの【闇】に対し無自覚、無症状なのである。
そうして多くのものが【闇(病み)】を患っているという「今」なのである。
自らの【闇(病み)】と対峙することが無くなった人々は、アセンションで起こる『成長』の波に乗れない。
ただ『楽』に逃げ、自らの【闇(病み)】に「無自覚」「無症状」となっているだけで、実際の所は【闇(病み)】を患っているが気付かない。
風邪のウィルスや病原菌に冒される如く、【霊懸かり】という【闇(病み)】に冒され続けても「無自覚」「無症状」を貫くために『スピリチュアル』な何事か「接種」する。
ワクチンが「無症状感染」を引き起こすのと同じで、「無自覚霊懸かり」の人々が溢れかえっている。
「無自覚」ゆえに「感染」を広げるように「霊懸かり」を伝染させてゆく。
「ワクチン」を接種したらウィルスに「感染しない」と高をくくっている人々のように、【神】を「接種」したら「霊懸かりしない」と高をくくっているのである。
だから【九分九分九厘の霊懸かり】となるわけである。
無自覚、無症状とは恐ろしいものである。
「アセンション」は人々に様々な【試練】をもたらすものである。
それらの【試練】を体験し乗り越えるゆえに人は成長し【魂】が「アセンション」という【上昇】をするのである。
だが、そこから逃げ出した人々は【闇(病み)】から逃れられない。
ただ【闇(病み)】を抱えたまま「無自覚」に上昇した「気分に浸る」ばかりなのである。
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