クンダリーニの「ふたつの弁」と神人和合の「ふたつの岩戸」 《癒奏術・華厳の章》
クンダリーニエネルギーの中央管にはふたつの「弁」があり、通常その弁は塞がっている。
そして、その「弁」が開かれた時、クンダリーニのエネルギーが巡り始め、その中央管に巻き付くように螺旋に伸びた2本の管にもエネルギーが流れ出す。
この「弁」が開かぬうちにクンダリーニのエネルギーが膨れ上がれば、発熱したり体に不調が起こる。
時折、「発熱」を「クンダリーニ覚醒」と捉えている人も居るが、エネルギーが全身を巡らず「つまり」を起こしているから「発熱」が起こるのである。
その「つまり」の最たるものが「弁」である。
「発熱」は「目覚めの合図」であり、例えるなら「目覚ましが鳴った」というものである。
ゆえに、ここから「目覚め」のための『取り組み』が必要になる。
だがしかし、多くの人は「身体」の修練ばかりを行うため、「弁を開く」までには至らないわけである。
それは、非常にもったいない残念なことであると思う。
せっかく「目覚め」のための準備が出来はじめたのに、それだけではどんなに修練を積んでも「道半ば」で行き止まりになる。
そして、再びエネルギーの「つまり」ゆえに体調に影響が出たりするわけである。
「クンダリーニの弁」は「ふたつ」あるということの意味をしっかりと考えなければならない。
身体の修練だけでいいものならそもそも「弁はひとつ」でいい。
だが「ふたつ」あるという事実を見つめなければならない。
『何故ふたつあるのか?』
それ以前に
『エネルギーとはそもそも何なのか?』
ということである。
そして
『チャクラやクンダリーニはそもそも何なのか?』
ということである。
その答えにたどり着くためには
『そもそも人とは何なのか?』
ということまで考えねばならない。
そういうことも考えぬまま、答えを見いだせぬまま修練したりしているのではないだろうか。
修練しているのならまだいい。
ただその『言葉』だけを「利用」しているものもまた多い。
まあ、ここで詳しくそれを説明する気は無い。
それだけで一冊出来上がるほどの情報量になるだろうから・・・
知りたい人は古典を学ぶことである。
そもそも「エネルギー」は「次元」を跨いでいるものである。
そして、チャクラもクンダリーニも同様に「次元」を跨いでいるものである。
そんな「次元」を跨いでいる気管が何故人に備わっているのか?
である。
有り体に言えば「クンダリーニ」も「チャクラ」も『肉体と霊体』両方に跨がって存在しているものである。
つまりは、それがために「弁」は「ふたつ」在るということ。
だから肉体のみの修練では「弁」は開かない。
霊体の修練も必要なのである。
では「霊体の修練」はどのように行えばよいのか?
「霊体」とは「精神体」である。
ゆえに「精神」を修練する必要がある。
精神を修練するとは「魂を磨く」ことでもある。
御魂磨きが御霊磨きとなる。
そして「肉体霊体」両の身体を磨いて『身霊磨き』となる。
このクンダリーニの「ふたつの弁」は
地引きの岩戸
天の岩戸
この「ふたつの岩戸」なのである。
千引きの岩戸を開くのは『人の役目』であり、「天の岩戸」を開くのは『神の役目』である。
ここで『岩戸』という言葉に人は囚われて、まるで『扉』ででもあるかのように「開かなければ」と勘違いする。
『岩戸』は『意和十(いわと)』
人と神の『意』が『和』して『十(むす)』ばれることである。
言問い答えが返る『言答(いわと)』でもある。
「地引きの岩戸」は三四五(ミヨイヅ)の三と五の次元の間にある四次元の虚空である。
そして、ほとんどの人は「地引きの岩戸」に阻まれて四次元を彷徨う。
「天の岩戸」は五六七(ミロク)の五と七の次元の間にある六次元の虚空である。
これを押し開くのは神の役目であるが、神が勝手に開くことは無い。
人が「手を伸ばさなければ」けっして神は手を出さない・・・というより出せない。
さらに、人が「真っ直ぐに」手を伸ばさなければ、神はその手を握ることは出来ないのである。
だから、人は「真っ直ぐに」天に向かうという『修練』が必要となる。
そして、そのために必要なのが『神を捨てる』ということ。
『神を捨てる』とは『自分が勝手に思い描いた神を捨てる』ということである。
「勝手な神」の思い込みを握りしめたまま手を伸ばせば、間違いなく横道に逸れて「霊懸かり」となる。
ゆえに、ただただ真っ直ぐに「神」なる存在に手を伸ばした時、自らの御魂の七の次元の神が「天の岩戸」を押し開く。
人からの意が「地引きの岩戸」を開き、神の意が「天の岩戸」を開く。
それは「同時」に開かれる。
そして五の次元で結ばれ『意和十開き』となる。
「結んで開く」のが【岩戸】である。
そして、それが「クンダリーニのふたつの弁」でもある。
真っ直ぐに伸びたクンダリーニの中央管は火(霊)の柱
中央管をめぐるように螺旋に伸びる2本の管は水(身)の柱
火水が結ばれ火水(神)の宮柱となり、その身は三四五、五六七を行き来する『神人合一』した【地の宮】となる。
そして、神と人が交わり結ぶ五の次元が【奥山】であり、【奥山】の自分が【奥宮】となるのである。
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