「肉体」という五元を知る道 ~般若の道 《癒奏術・華厳の章》




人は「肉体」という器を通して「五元の神」の恵みを知る

五色が奏でる彩りを観じ、五香が醸し出す香りを嗅ぎ、五味が絡み合う味わいを堪能し、五音の調べに耳を傾け、五季の空気を肌で感じる。

目、耳、鼻、舌、肌の五根が受け取る「五元」の生命をいただき、五臓で受けて肉体の生命を巡らせる。

生命の巡りは五体隅々まで行き渡り、五指の先にまで生命は巡る。

すべては五元の神である「きひつかみ」の恵み。



五元の神 無かりせば 霊の依り代失わん



肉体という五元の神が与え給うた「五感」を通して現世(うつよ)を知る術がある。

されど人は「五感」から離れ、「思い」の中に留まり続けるため、神の言葉が届かない。

最も近き神を忘れたゆえに、神の言葉が届かない。



「きひつかみ」は五感の先に「観音」を使わす。

だが、五感の極みという「岬」に立たねば、海原を渡り来る「観音」には出会えない。


五感に現る「五観音」は、常に導きを与えるための「観音力」を顕している。

それは、望めば誰もが受け取れるものである。

ただ、五感の岬に立つだけでいい。


妄想という思いの揺り籠から出て、五感いっぱいに自分を広げれば、「観音力」と一致して自ら「観音菩薩」となり得る。

そして、自ら観音菩薩となれば、さらにその上の神へと繋がる。



弥勒世は菩薩の世界

自ら「観世音菩薩」となる世界

人宮には常に五柱の神の柱が立つ


肉体は初めから「宮」である。

その「宮」に降り立ったのが我が魂。



されど、その宮に禍霊を入れて、宮を明け渡した魂達。

五柱の神柱は歪み、高天原に届かず導きは途絶え、五感は曇りに曇って岬へ立つことも能わず。

「宮」の隅で呆けた魂は、誰が守護神で誰が禍霊かもわからない。

そして「宮」は荒らされ放題。


せっかく預かった「宮」を大切に出来ず、「宮」に湧き立つ霊達と同化して、「宮」を失えばそのまま彷徨う霊となるばかり。



かつての「宮」を追い出された霊達は、今「人宮」に群がり巣くう。

救われたき霊達は、餓鬼の如く「宮」に群がる。

群がり来る餓鬼たちに、「宮」を奪われるは時間の問題。

すでに「宮」を明け渡したる魂なれば、奪われるもやむ無しとなる。



「人宮」は「きひつかみ」の五柱の神で支えられる「宮」

その五柱の神柱が真っ直ぐ立たずして、高天原への道は無い。

五柱の岬は五次元

我が御霊が在るべき場所

そこは菩薩の世界

現世と幽世を渡る「観世音」が住まう世界である。



「観音」とは男女一対の神

「火(観)水(音)」結んだ姿

五次元の弥勒世には男女一対の自分がある

その「観音力」こそ我が魂

五次元の自分の子が自分である