お利口さんの「公式パラダイム」 《癒奏術・岩戸の章》





初めて出くわした「問題」に対して「解き方」を知らない段階で、一定の少数の人たちが「答え」にたどり着いたりする。

だが、答えにたどり着けない「お利口さん」とされて来た者達は、答えを出せない自分を認められない。

そのため、「科学的根拠」であるとか、「論理的整合性」であるとか・・・・

要は「答えに至る公式」を欲する。

だがそれは、逆に言えば「公式」がなければ「答え」にたどり着けないということを表している。

しかし、それらの「公式」というものは、単なる「つじつま合わせ」であったりする。

その「つじつま合わせ」を採用するか否かは結局の所「感情」なのである。

お気に召すか召さないか・・・

そんなものでしかない。



自分は「答えにたどり着けない」ということを認められず、だから他者の「答え」を認めるわけにはいかないだけだ。

理系脳独特の「公式パラダイム」

その「パラダイム」から抜け出すことが出来ない。

とにかく「公式」が無いと『落ち着かない』わけである。



「答え」にたどり着く道はけっして「ひとつ」ではない。

さらには「答え」もひとつとは限らない。

だがそれを理解出来ない者達もいる。

「答えはひとつのパラダイム」

「合理性」と「テスト」の繰り返しで染みこんでしまった「パラダイム」である。



それらは、限られた場所、限られた状況、限られた環境では有効性を発揮する。

しかし、それを「世界」へと拡大させてしまえば「不具合」だらけとなる。

非常に視野の狭い「箱庭世界」が出来上がる。

まるで「工場」のような世界となる。



そして世界はそうなった。

視野の狭い「パラダイム」に囚われた「箱庭世界」である。

だから社会はまるで「工場」のようであり、「合理性」と「生産性」と「利便性」を求める。

自然から遠く離れた「不自然な世界」となり、その小さな「箱庭」では、「不自然」なはずの「自然」を「自然」と認知する。


パラダイムに囚われた「お利口さん」「優等生」が社会の上層に行ったため、いびつな「パラダイムに囚われた箱庭社会」が出来上がった。




自然とは「非合理」であり「非常理」である。

だから、「非合理」や「非常理」を廃すれば、自然に対する認識は「不自然」なものとなる。


さらに、「わからないもの」を「無いもの」としてしまう「詰め込み教育パラダイム」

それは、「そういうものだから」という乱暴さで押しつけられた「常識」や「公式」を、受け入れなければ「先へ進ませて貰えない」という脅迫観念から生まれた「パラダイム」

次から次へと押しつけられる「知識」という「情報の波」に呑まれ、溺れまいと必死に足掻いた結果でもある。

「噛み砕いて」「味わって」「呑み込む」ということが出来ず、丸呑みしていくように「知識」を呑み込んでいった結果である。


そこで、ちゃんと噛んで味わって「不味い」と感知した者は立ち止まる。

そして、立ち止まるから呑み込まれないのであるが、呑み込まれまいと必死に泳ぎ、波に乗っているつもりの者ほど実は「呑み込まれて」いるのである。

その「繰り返し」が生み出した「パラダイム」である。


必死に泳ごうとすればするほど「溺れる」

舵を取るほどに「渦」に呑まれる



公式や論理を追いかけ、情報を追いかけ、慌てるほどに「渦」に呑まれる

それは「自分の中」に「答え」が見つけられないからであり、自分が見つけた「答え」よりも「公式」「常識」といった「外側」に「自分軸」を置いているからである。

そして、それは「自己感覚」よりも「他者感覚」に「依存」していることでもある。

つまりは「自分」を信じていないのである。


常に「信」を「外側」に求めている。

そんな「自分を信じない」者達は、けっして「他者を信じる」ことはない。

されど「自分ではないもの」の「答え」を「信」とする。

この「矛盾」にも気付かない。

それは非常に「非合理的」であり「整合性」の取れていない状況である。

もっとも忌み嫌うはずの「公式から外れた」状況なのである。



「パラダイム」とはそういうもの。

いくら「論理」や「整合性」を求めたところで、つまるところ「感情論」なのである。

常に「恐れ」を内在した「感情論」なのである。

「科学的整合性」からはほど遠い「感情論」なのである。


そして、自分や他者の「感情」を見てこなかったため、自分の「感情」に「気付く」ことが出来ないのである。