「断食」の先にある世界 ~仏陀が進んだ華厳の道 《癒奏術・華厳の章》




「断食」と言うと「痩せる」であるとか「デトックス」であるとか、そういった言葉がよく出てくる。

だが、同時に「反対」する意見も多い。

それらはおおかた「栄養」というものに囚われていたり、「痩せる」に囚われていたり、「デトックス」に囚われたりしているためであろう。

痩せるのに何も断食しか選択肢が無いはずもなく、食べて痩せることも出来る。

デトックスも同じである。


「精神的修養」という人も居るだろう。

だが、いったいどのような「修養」というのだろうか・・・




例えば、私は施術中はほとんど目をつぶっている。

30分、60分、90分という施術時間のほとんど目を閉じている。

それは「視覚情報」が『邪魔』になるからである。


視覚から得られる情報量は非常に多い。

しかし、「見通せない」部分も多いのが事実である。


施術に必要な情報というのは「視覚で見通せない」ところにたくさんある。

それを「指先」から得たり「肌」から得たりする。

指先に伝わる「感触」で視覚の届かない体の内側を知り、肌に伝わる「気配」で術の良否を識別したり・・・・

さらには「霊体」としての体の状態をも認識する。


体の内側の奥へ奥へと進むと「裏側」が開けてくる。

「裏側」とはいわゆる『あちらの世界』である。

それは、感覚を研ぎ澄ませた先にある・・・というより、「感覚で知る」世界であるからだ。


視覚には「肉体の視覚」と「霊体の視覚」というものがある。

だが、肉体の視覚情報が多すぎると、霊体の視覚情報がぼやけてわからなくなる。

だから「霊的視覚」を上げるために「肉体的視覚」を閉ざすのである。


そのようにして続けていると、やがて肉体的視覚にも惑わされなくなる。

それは言うなれば「隠し絵」のようなものである。

以前にも言っていたことであるが、例えば「隠し絵」をパッと見ても隠されたものは捉え難い。

だが、一度見つけてしまえば後は簡単に見つけられるようになる。

何度も何度もそれを繰り返せば、特定のパターンがあることがわかり、更に見つけやすくなる。

「霊」とはそういうものである。



「断食」も同じようなもの。

視覚を絶つように「食を断つ」ことで感知できる世界が広がる。

「食べる」という事に対して今まで気付かなかったことが見えてくる。

「味覚」は広がり「食べた」後の影響まで感知し、それによって五感も研ぎ澄まされてくる。


現代人は常に「情報の波」に呑まれているため、情報量が多すぎて「繊細」な情報を認知しにくくなっている。

しかも、大量な情報に晒されているにもかかわらず、必要な情報にたどり着けていない。

だから「情報」にまで飢えている。



自分自身が『感知』出来るはずの「自分に必要な情報」を自身で得られないため、外部からの情報に「頼っては間違える」を繰り返す。

つまりは「自分」というもののちゃんとした「情報」を得られないため、外部の情報と照らし合わせて整合性を取ることが出来ない。


自分に必要なものは何か?


その時々にそれを知ることが出来ていれば迷うことはないのである。



そして、『神の導き』や『言霊』を知るためには、繊細な情報を感得するだけの繊細な感覚が必要なのである。

宇宙を構うほどの『神』が直接語りかけてくるなどあり得ないわけで、ではどのようにして『言霊』を得るのかと言えば『中継する神』があり、『中継する霊』があって、それらが自分の『霊』に働きかけ、霊体から肉体へと感知するのである。

そして、その過程が「真っ直ぐ」なのか「歪んでいる」のか、その都度「精査」しなければならない。

それが「審神者(サニワ)」するということ。

サニワもせず「霊」が語りかけてくる言葉に耳を傾けていれば、いくらでも歪んでいく。


次元が上がれば上がるほど難しくなる。

「神」の領域にも当然「悪神」が居るわけで、審神者が出来なければ見分けは出来ない。

「導きに従って」と言いながら、実はとんでもないことをしている可能性もあるのである。


常に自分の側に居る「守護霊」や「守護神」が「真っ直ぐ」で無ければ、簡単に「悪神」の言葉を後生大事に伝えてくる。

何でもかんでも「導き」だとして採用していたらとんでもないことになる。

「神様は良いことしか言わない」などと思っていたら大間違いである。

八百万(やおよろず)様々な「神」があるのである。



頭の中の情報の波に呑まれた状態で、それらを見分けることは出来ない。

自分自身すら掴めない状態で、神を掴むなど出来ないのである。

自分の「五感」が語りかけてくる「体の言葉」にさえ気付けなければ、霊や神など審神者出来るわけはない。



仏陀は断食の最中も、その後も、ずっと「内観」していた。

それこそが「断食」の意味である。

今まで見えなかったものが見え、わからなかったことがわかる。

食に限らず、ある感覚を断つことで得られることは多い。

目を閉じれば耳を頼りにし、さらに耳も塞げば鼻や肌感覚を頼りにし始める。

それが感覚を研ぎ澄ますことになる。

1日2日「食」を断ってみることで研ぎ澄まされる感覚がある。

毎週1回、2回と続けることで研ぎ澄まされる感覚もある。

そして、見えるもの、感知できるものが増えることで「世界」の見え方そのものが変わる。

断食だけでなく「粗食」にしてみるだけでも違うのである。

だから、単に栄養学的な話ではない。


単に痩せる痩せないや健康だけで見るなら、別に断食で無くても何でもいい。

断食をしなくても感覚を明敏にする術があるならそれでいい。

ただ単に断食とは「食を断つ」ことによる感覚の鋭敏化が得られるということである。

だが、その目的を持って行わなければ「内観」はなおざりになってしまう。

しっかりと内観を行うことで自分の体と対話していれば、続けるも辞めるも体が教えてくれる。


ただ、覚えておかなければならないのは、一度そちらの世界を知ると「戻れない」だろう。

戻れないというより「戻りたくない」と思う。

周りの人と自分が見ている「世界」があまりにも違うのだから。