星の時計と時空間 《癒奏術・鋼の章》
世間一般で言われている「時空」というものがどういうものなのかはわからないが、私が感知し認識している「時空」は『刻の時計』ごとに存在する「時空間」であり、『刻の時計』とは『星の時計』である。
惑星が放つ「響き」ごとに『時間の流れ』が違っており、それは太陽を巡る速度に比例する。
つまり、水星は時計が早く、冥王星は時計が遅いという回転速度の「まんま」である。
現代人というのは、情報に振り回され、情動に振り回され、物の流れに振り回され、金の流れに振り回され・・・・・
この「振り回されて」いる感覚は「水星」が「地球」よりも「時計が早い」からであり、だから「振り回される」という感覚となるわけである。
つまり「水星時間」の中に没入しているのである。
それは「地球」に居ながら「地球時間」で生きていないということ。
それゆえ「グラウンディングしなさい」となるわけであるが、肝心の「グラウンディング」に「地球時間」に自分を合わせられなければ「グラウンディング」には至らない。
「大地の響き」を感じるとか、「地球の周波数に合わせる」というのは、地球の「時空間」が持つ「響き」であり「周波数」に自分を合わせるということである。
『太陽系』という宇宙空間の『円環』の中には惑星それぞれの「時空間」が存在する。
地球上にもそれらは「重なって」存在している。
それら重なる複数の「時空」の『何処』に自分が居るのか?
この場合の「自分」とは「自分の意識」である。
現代人の多くが地球に居ながら地球の時空に意識を置いて生きていない。
水星の時空がほとんどであるため、他の時空を捉えにくくなっている。
身体は地球時間であるのに、意識は水星時間というチグハグさは、意識と身体の調和を乱し、その結果「身体」が存在している地球の時空間に「もどかしさ」を感じ、それが「焦燥感」となってさらに地球時間から離れていく。
「グラウンディング」とはこのズレを「調和」させること。
「水星」などが司るものから意識を外し、地球の『時間』そのものに意識を向ける。
それは「今ここ」にあるものに意識を向けるというだけのことである。
意識が地球時間に合わせられたなら、ようやく様々な「時空間」が存在していることの『気付き』へと向かえるようになる。
はるか遠い天王星、海王星、冥王星の「時空の胎動」という「響き」の中に【刻の神】の導きがある。
それは、『理(ことわり)』であり「神でも動かせぬ道理」なのである。
神々はこの様々な時計を見ながら活動している。
それらを一度に掌握できる場所が『太陽』であり、それゆえ『天照皇大神』は『太陽』の位置から「機織り」をしているわけである。
全ての惑星は『太陽』からの糸で繋がっており、それが時計の針のようなものなのである。
それら惑星の円環が醸し出す「響き」が太陽系全体に重なり色づき響きを変える。
そして、それが「潮の流れ」となって宇宙を流れている。
その「潮流」は流れを変え波を立てながら止まることなく動き続ける。
「天」とは「⦿」の・(点)であり、〇は◎と弥栄える「海原」である。
ほんの3年前に宇宙の「潮目」が変わり「流れ」が変わった。
潮の流れに任せていれば自らの流れも変わるのに、人は舵を取り自ら漕いでいる。
今まで通り進もうと漕いでいる。
そんな状態なのである。
意識と身体が別の時空間を生きているため、潮目の切り替わりに気付かない。
水星の時空間が司る『情』に振り回され続けている。
だから『情』が絡んだ様々なものに振り回される。
「グラウンディング」=「大地に繋がる」「地球に繋がる」というのは「抽象的」なものの見方の一面でしかない。
「今ここ」に繋がる・・・・それは「今ここの時間」に繋がること。
自分の身体に繋がり、自分の周囲にあるものに繋がる。
今の時期なら蝉が鳴き始め、生命が盛んに息づく時期である。
それらの「今」と調和して「地球の時空間」に意識を戻すことである。
人はいかに「情」に振り回されていることか・・・・
「情報」に振り回され、「情」が絡んだ物に振り回され、「情」が絡んだ金に振り回され、他人の感情に振り回され、自分の感情が振り回されている。
様々に絡みついた「情」から意識を離し、しっかりと自分の身体に意識を向ければ、「グラウンディング」となるのである。
わざわざ地べたに座らなくとも、全身に張り巡らされた「五感」は「地球の時空」に存在している。
だからそこへ戻ればいいだけである。
【刻の神】の『太占(フトマニ)』は神でも逆らえぬ理(ことわり)
様々な「時空」が折り重なる宇宙の海原の『フトマニ』は、潮の流れの理(ことわり)
その理(ことわり)の機織りの中で神々は、地球に『地の高天原』を現出させようとしている。
今がその『潮目』なのである。
ひふみ神示 補巻 月光の巻 第五十八帖
春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節ほど結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神のハタラキであるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。水が逆に流れるのであるぞ。上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ。
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