【一言主】誠の神を知るもの 《癒奏術・鋼の章》
まことの神の『御言葉』は、ただの「一言(ひとこと)」である。
多くの言葉を伝えるのは、さらに下層の霊の翻訳。
下がれば下がるほど饒舌になる。
時々、途中の霊を飛ばして直接神の言葉が来る。
そういう時は決まって「一言」
さらに問い詰めれば、ようやくもう一言・・・・
ただ告げるべきことを「一言」で告げる。
それが「誠の神の御言」である。
ただ告げる
ただ見せる
ただ起こす
その一言(一事)は常に『大局』の「ひとこと」である。
人は小事に囚われこだわりすぎて、大きな「ひとこと」を見失う。
「導き」に対していちいち理由や説明を求める。
私のもとに来られる人の多くがそうであるように、大方の人はそうであろう。
理由を求め、理由をこじつけ、納得したい小事にこだわる心に振り回される。
そうして「御言」は消えてゆく・・・
途中の守護神がしっかりしていれば訳すなり注意するなりもしてくれるが、守護神共々小事に囚われ目先しか見えない。
だから「御言」の大きさが大きすぎて目に入らないのである。
とある日、木花咲耶姫が一言『わたすものがあります』
その言葉と共にオレンジの稲妻のような光がふわりと降りてきた。
それだけである。
それが何かもわからない。
それ以外言わないのは、言う必要がないからである。
来るべき時に再び「一言」が来る。
来たるべき時に「気付き」がある。
だから一言でいい。
ある時、神は私ではなく近くに居たものに「一言」を降ろした。
『龍神祝詞を唱えよ』と・・・・
私のところに言葉が来なかったのは「龍神祝詞」という言葉も存在も知らなかったからである。
知らなければ「言霊」は訳せない。
だからその言葉を知っているもののところに降りた。
それもやはり「一言」である。
来たるべき時がくれば気付く。
気付けなければそれまでである。
ある時、夢の中で「出口直」さんと思われる老女に出会った。
彼女は言った。
『おまえがやれ』
・・・何を?
一言だけ伝えられたところで目が覚めた。
一言であるところを見ると、やはり彼女も「神」である。
上の方から三次元まで降りてくるだけでも大変である。
段階を経てまでわざわざ降りてくるわけで、途中の守護神が連携できれば連携して言葉を降ろしてくるほうが楽である。
だが、直接必要な時もあるのだろう。
間接ではダメなのか、どちらにしてもわざわざ面倒を経てでも「直接」がいいのだろう。
「たったひとこと」のために。
人は目先しか見えないが、神は「来るべき」時が見えている。
だから「一言」しかなくても十分であることをすでに「知っている」。
「一言主」の時代、人は神の言葉を聞いていた。
だが、「一言主(ひとことぬし)」は「言離主(ことさかぬし)」となり、人は神から離れた。
そして今まで来たのである。
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