月読命が生まれた理由 《癒奏術・芙蓉の章》
月読命が生まれた理由は簡単である。
それは日本と外国の「言語」の違いである。
その「言語」が違うということの中には「思考順序」が違うということも含まれる。
簡単に言えば日本人の言語と思考は「太陽」の立ち位置であり、外国の言語と思考は「月」の立ち位置なのである。
それは変えられない事実であるがゆえに「教え」のプロセス自体が変わらなければ理解に至らないため、外国のための「教えのプロセス」としての【月読命】が生まれたわけである。
その「教え」として婆羅門(バラモン)が生まれ、外国人の言語と思考のプロセスに沿って【神】を理解するための「教え」が生まれた。
言語を理解する上で大切なもう一つの要素は「文字」である。
現在、日本語にはひらがな、カタカナ、漢字という三種の文字を駆使して使われるが、これは外国人にとっては「悪魔の言語」と呼ばれるほどに「難解」なのである。
漢字に至っては音読み、訓読みがあり、同じ音でも違う文字も多数存在する。
更には漢字一つで「意味」を含む。
漢字とは「象形文字」の変形であり、その根底が「絵」なのである。
だから日本人の文化に「漫画」が生まれるのは必然であろう。
しかし、現代日本で「漢字の成り立ち」まで追って理解しようとする人は少ない。
だから私の文章も理解できないことが多いだろう。
だが、外国語にはそんなものは無い。
「文字の歴史はそれほど古くはない」
そういう反論も出来るが、もともとそのような言語があったからそのような「文字」が生まれたわけで、文字は言語の後追いである。
まぁ、この後追いの文字によりさらに複雑さを増したことは事実だろう。
そのような言語で語られる【神】を外国人に理解させるには、言語と思考に沿ったプロセスが必要になってくる。
だから【月読命】が必要なのである。
【神】という光を「月」の立ち位置から伝える教え・・・
それが【月読命】の役割であり、「婆羅門(バラモン)」の教えとなる。
そして「仏陀」の根底にこの「バラモンの教え」がある。
それが根底にあっての「仏陀の教え」なのであるが、仏陀の教えを伝えるはずの仏教には「それ(バラモン)」が無い。
というよりも一番大切なものが欠落している。
そうなってしまったのか、それとも故意なのか、仏陀の教えと称される言葉の数々から【神】が消えた。
バラモンの柱である三柱の神が消えているのである。
教えとは時間の経過と共に変化するものである。
目的を理解させるための「手段」であったものが、やがて「教える」という手段が目的化してしまい、目的地にたどり着くための教えがどんどん横道に逸れてゆく。
そうやって仏教は様々な「横道」が生まれ、目的地に到達することよりもただ「道」を歩いているという事実の方に重きを持つにいたる。
私自身「教える」ということをしていたから気付いたが、「教え」に囚われ「教えること」が目的化すれば必ず本来の「目的地」が遠のくということを知っている。
だが何故か人は「道」を求める。
「道を歩いている」という事実が「進んでいる」という実感に至る近道であるためであり、だがそれは目的地へ到達するかどうかは「別の話」なのである。
道を歩いているからいずれ目的地へたどり着ける・・・という淡い期待のもとに歩いてはいるが、目的地を見失った状態で歩いていても、いつまでたっても目的地には到達しない。
目的地の無い地図を持たされて歩く様は、ナビに従いとりあえず進んでいる現代人の状況と同じである。
しかも、目的地を「自分で」設定していないという、非常に曖昧な状況下で歩いているわけである。
「教え」とはそのように変質してしまうのである。
おそらく、仏陀自身が仏教の教義を見ればそれが一目瞭然だろうと思う。
「仏教は仏陀の教え」であることは間違いない。
だから教えで人は間違う。
言うなれば「虫食い」の経典を見ていてもわからないわけで、教えである事実は変わらないから「それでいいんだ」となって疑わない。
私は疑い深い。
だからすぐに疑ったのが「仏陀は仏教徒ではない」という曲げられない事実が在る・・・ということである。
仏陀の言葉の端々に現れる「バラモン」という言葉は、仏陀の根底に「バラモン」があることがすぐにわかる。
では「バラモン」とは如何なるものか?
そこから始めなければ仏陀の言葉は骨肉とならない。
なぜなら、バラモン無き仏教は「骨」の無い血肉でしかないからである。
そして、脊柱としての「三柱の神(ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌ)」があり、その他様々な「神々」が根底にある。
日本で言えば「天御中主、伊邪那岐命(高神産霊)伊邪那美命(神産霊)」の三柱と八百万の神々である。
それが「骨」である。
だが仏教からは「神」が消えている。
だからそれは「血肉だけの無脊椎動物」な教えなのである。
そして、教える側の都合で様々な道筋が造られてゆき、八本足のタコのように吸盤で捉えるごとくになっている。
そして、仏陀の視点や思考の順序も「あくまで月の立ち位置」であり、日本人とは根底から違うのである。
だから日本人は「仏教的」ではありながらも「目的」を見失った状態で「道を歩いている」だけとなってしまった。
目的地の書かれていない道で、ただ「歩く」ことだけを教える仏教である。
「歩くことに意味がある」
と言うかもしれないが、それは仏陀の望むところなのか?
「教え」とは人の意識を「やっているつもり」にしてしまう。
それは学問も同じ。
「知っているつもり」でしかない。
「学ぶ」目的を見失い「学ぶ」という手段でしかないものを目的化したところに「学び」はタコ足と化し、目的地へ到達しない「つもりの道」を歩いているばかりである。
これはキリストも同じである。
イエスの根底に「原始ユダヤ教」があり、そこにはやはり「三柱の神」が存在する。
そして「火(霊)と水(身)」の火水の結びを説いていたはずである。
だがそれも「教え」によって形が変わり、肝心の脊柱の無い、骨のない軟体動物へと変わっていった。
日本で言うところの「柱神(天御中主)と伊邪那岐命(高神産霊)伊邪那美命(神産霊)」の結びである。
さらには、【マリア】というウガヤフキアエズ朝の「型」である【玉依姫】の「型」までちゃんと存在している。
聖書には確かにイエスの言葉が綴られているだろう。
だがその事実が虫食い経典であり、肝心の「骨」の部分が欠落していれば、その全体像は全く異質のものとなってしまう。
だがこれも仏教と同じように「教えを実践」しているということで「神への道を歩いている」つもりになるのである。
骨を失った「教え」は、触手ばかりが増えてゆき、タコ足の軟体動物さながらとなりゆく。
日本の神道も全く同じ。
しかも「太陽の言語」であるはずの日本で「月の言語の教え」が広まっている。
だから余計にチグハグになる。
「月の立ち位置」から見なければわからない【月読命】の「教え」が根底にあるため、立ち位置を「月」へと移行せねばならない。
わざわざ太陽光を月明かりへと「落とす」ということである。
そうして夜空に「月」と「星」を崇める「神道」へと変質していった。
だが日本には「骨組み」がある。
だがそれも「軟体動物」の職種に合わせて骨を継ぎ接ぎされていった。
だから天照大神が何なのか?、月読命が何なのか?素戔嗚命が何なのか?
わからないまま拝むのである。
仏教の経典や聖書のように「軟体動物」さながらの「記紀」をたよりに「ただ歩くだけ」の神祀りへと形骸化してゆく。
何のために「祀る」のか?
何のために「拝む」のか?
そもそも「何を」祀っているのかさえわからないまま形骸化された「祀ること」を行うことで「祀ったつもり」を続けている。
これら「つもり」の概念世界から脱却しないかぎり、いくら「神人和合」を説こうとも理解するに至らないだろう。
「つもり」が当たり前となってしまった世界では、そもそも「つもり」自体もわからないだろう。
骨のない「触手の数」ばかりが多いことを「善し」とする世界の常識が根底にある中で、「骨が無い」といっても理解できないだろう。
「気付ける者しか気付けない」
のである。
そして「気付いた者」しか到達出来ないのである。
恐らく「気付き」という言葉さえ、理解に溝があるだろう。
多くの人はせっかくの「気付き」も、「気付いたつもり」のままで終わらせる。
気付きを「確定」させようという人は稀である。
この「確定」させる行動が「掴む」ということなのであるが、「つもり」の世界ではそれはさして意味を持たない。
だから「確定」させる大切さに「気付けない」のである。
そして、それを「審神者(サニワ)」と呼ぶのだが、それも「つもりの世界的」に解釈しているだろうから、実際の「審神者」には至っておらず、頭の中でだけ「審神者したつもり」で終わっている。
さて
「つもりの世界」に囚われた自分自身を「掃除洗濯」してそこから脱却できるのか・・・・
自分が存在している「箱庭」という『パラダイム』を壊すことが出来るのか・・・・
ひふみ神示 下つ巻 第二十一帖
・ばかりでもならぬ、〇ばかりでもならぬ。⦿がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民は⦿でありたが、・が神国に残り〇が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。・もかたわ〇もかたわ、・と〇と合はせて まことの⦿(かみ)の世に致すぞ。今の戦は・と〇との戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは〇に・入れることぞ。〇も五ぞ、・も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。一厘の仕組とは〇に神の国の・を入れることぞ、よく心にたたみておいて呉れよ。神は十柱五十九柱のからだ待ちてゐるぞ。五十と九柱のミタマの神々様お待ちかねであるから、早うまゐりて呉れよ。今度の御役大層であるが、末代残る結構な御役であるぞ。
上つ巻 第十三帖
元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。
だがこうも言っている。
アメの巻 第十三帖
世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、替え御魂あると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。
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