【瓊瓊杵(ニニギ・ニニキネ)尊】~斎名だけの神 《癒奏術・芙蓉の章》
ニニギという神は神界には存在しないため、神界のどこを探しても見当たらなかったわけである。
それもそのはず「神名」ではなく「斎名」であってみれば頷ける。
名にある「杵(キネ)」は斎名であり、高位の神にしか与えられない。
だがしかし、「杵(キネ)」が付く時点で『皇尊(スメラミコト)』ではないのもまた事実。
『皇尊(スメラミコト)』には「キネ」ではなく「ヒト・ヒコ」が付される。
「忍穂耳(オシホミミ)」の斎名は「オシヒト」であり、その子である「櫛玉火明(クシタマホノアカリ)」の斎名は「テルヒコ」である。
「忍穂耳(オシホミミ)」と同じアマテルの御子である「天穂火(アメノホヒ)」は「タナキネ」
「天津彦根(アマツヒコネ)」は「タタキネ」
「活津彦根(イクツヒコネ)」は「ハラキネ」
という具合に「キネ」が付される。
「ニニキネ」という斎名の神を探しても見つからない。
何故だ?
考えられる答えはひとつ・・・
隠されているということである。
隠す理由もひとつ。
不都合があるからだ。
この「答え」に至るものが全く無いのだが、ただ一つだけ「答え」を現わした人がいる。
それが出口王仁三郎氏である。
彼は「木花咲耶姫」の夫神が『天穂火命』であるとだけ現わしている。
『天穂火命』の斎名は「タナキネ」であるが、最初は「タナヒト」であった。
だが、『忍穂耳』が「オシヒト」となることで、「タナキネ」へと降格したわけである。
そして、ここから『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)』が生まれる事態となったわけである。
神々は「大蛇(オロチ)」という様々な邪霊を祓ってゆくわけであるが、けっして消え去ることなど無い。
「和(やわ)す」ことのできた邪霊と、出来ない邪霊がいるわけで、出来なかったものは「鎮める」しかない。
それは「鎮まる」まで『悪を抱き参らせる』ということである。
邪霊の怨嗟の炎に身を焦がしながら「抱き参らせる」のである。
または「千引きの岩戸」で塞ぐ。
戸隠のように・・・・
そんな邪霊を封じた「岩戸」はあちこちにあるが、邪霊に惹かれて「天の岩戸開き」などと称して「邪霊を開放」している人もたくさんいる。
禍霊が禍霊を呼び合い惹き合い、更なる「霊懸かり」をしてゆく。
そうしてどんどん広がってゆく。
話をニニキネに戻す。
ニニキネとは「丹丹杵」である。
真っ赤な「杵」という「斎名」という「器」でしかない。
「杵」とは「突き固める道具」である。
しかるに、肝心の「突き固めるもの」が無い。
今の日本は〇(器)があって・(突き固めるもの)が無いのである。
真っ赤な〇(器)
日の丸そのものである。
だからそんな歴史が連綿と続いてきているわけである。
器(〇)にあれこれ「入れ替え」しながら続いてきた日本の歴史そのもの。
では、そこ(〇)に何(・)を入れればいいのか?
「天穂火命」がおさまればいいというわけではない。
それは「役割」が違うのである。
「型」だけ整えていれば何とかなった世はもう終わっている。
あの手この手で必死に「型」だけを護ろうとしてきたが、それはもはや意味がない。
型(〇)に在るべき芯(・)がおさまらなければならないのである。
八岐大蛇の「残穢(ざんえ)」を幾千年と清め続けてきた三女神、乙姫、咲耶姫。
すべて因果の縁(えにし)である。
祓戸の神々も同じく因果の縁なのである。
ひふみ神示 カゼの巻 第二帖
二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、かみの国の旗印と、⦿(もとつかみ)の国の旗印と同様であるぞ、●であるぞと知らしてあろがな、●にも二通りあるのざぞ、スメラ●の旗印と+*☀●と申して知らしてあろがな、今は逆ざぞと申してあろがな、このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ、岩戸開けんぞ。よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂ふぞ。
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