救い 《癒奏術・弥勒・序》
見殺しするのが当たり前の社会は、救うものがろくに居ないからであり
取って付けたような頓珍漢な偽善で、救っているつもりにでもなっているのか
「救い」が何であるか知らないから、頓珍漢なことをする
救い救われるということを、日常の中に見出せず
見殺しにしている自分の、日常には目をつぶる
いじめられて自殺した
パワハラセクハラで自殺した
後になって誰かを責めても、亡くした命は還ってこない
「その時その場」で救いがなけりゃ、「その時その場」を救えない
後の祭りで何を言っても、おさまらぬ感情のはけ口でしかない
遠くのものを救いたければ、目の前にある「その時その場」を救え
「その時その場」で見殺しにしているなら、救いはないのは当たり前のこと
手の届かない遠くにある「その時その場」を救うのは
日常の中にある「その時その場の救い」が『当たり前』であることしかない
学校で起これば「教師が悪い」
日本が悪ければ「政治が悪い」
官僚が悪い、警察が悪い、外国が悪い、男が悪い、女が悪いと誰かのせいに
いや違うだろ、親が社会が日常の中に「救い」の背中を見せていれば、その時その場で「救い」は起こる
人の心に「救う気」があるなら、そもそも起こらない出来事
あいつが悪い こいつが悪いと、頓珍漢なその偽善こそ「いじめ」の元凶そのものだろうに
どんな背中を子供たちに見せているのか?
「あいつが悪い、こいつが悪い」と、頓珍漢な偽善者の「詮無きこと」を言っているから
その時その場で「救い」が起こらず、見殺し社会が出来上がる
教師が悪いと責めるから、「監視」せざるを得なくなり、『監視社会』へと流れゆく
『監視社会』の元凶だと決めつけて、政治家責めても始まらぬ
そもそも「監視」を望んでおいて、「監視」するなと頓珍漢なことを言う
「監視」してもらわなければままならない社会にしているのは、その社会のすべての人ではないか
「監視されるのは嫌、でも間違いが起きないように見張れ。」
なんと頓珍漢な社会であるか・・・・
衆人監視の真ん中で、いじめは起こり、パワハラ起こり、なのに救われぬ有り様
一体何を「見張れ」というのか、頓珍漢な矛盾の偽善
そういうものを「改心」せねば『救い』などないのである
その時その場の「今ここ」という時に、救いが起こらねば救われぬ
その「救い」とは何ぞや?
何をどうすれば救われる?
何が正しく何が間違いか?
人目の「正しさ」求めれば、救いは偽善としかならぬ
その時その場で何するか?
経験する機会などあまりあるほどあっただろうに
答えを求めるその心、改心せねば間に合わんことになる
考えて答えを出そうとするから頓珍漢な答えに行きつくだけであるのに
何を柱に考えておるか?
どうせ人目の映りであろう
自分が無事ならそれでいい
だから救いがない
監視されなきゃままならぬ人世
救うのは自分に非ず 常に「誰か」の役目
そんな心が求める「救世主」
憐れなるかなイエスの生涯
人の心の悪を負う
心の中の悪を押し付け
身代わりになるが「救世主」
改心無きまま二千年
岩戸開けぬ人の性
ふたたび「生贄」求めおる
悪神懸かりの御魂かな
世を救ふ、大みゐわざぞ、ミコトかしこし。
まさに今、神のミコトを、このみみに聞く
三千世界、救ふみわざぞ、コトただし行かな
ひふみ神示 黄金の巻 第八十三帖
光る誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。
人の心にあるものが幽界に現出し、現界に映り来ているだけである
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