『いまだにシェディングの有る無し論争する愚かさ』 《シェディング奮闘記》
ワクチンを接種した人に限って「シェディングなど無い」と言い張る傾向があるようだが、そもそも「シェディング」に関する注意については、最初のワクチン接種が始まる段階でファイザー自体がシェディングに関する注意を促しており、厚生労働省もそれに基づいて同じ内容の注意を促している。
『ワクチン接種者に接触したりすると伝播(シェディング)する可能性があるので、妊娠中の方や授乳中の方は気を付けてください。』
というような注意勧告がファイザーからも厚生労働省からも為されていた。
要は「それすらも見ずに」接種したということで、有るものを「無い」としたいのだろうが、有るものは有るのである。
mRNAの作用機序が「初めからそうなるように出来ている」のだから仕方がない。
⑥の〈Protain release〉の機序でスパイクタンパクが体外に放出され、再び取り込み、⑧の〈MHC classⅡ epitope processing(抗原決定処理)〉が為される。
この作用機序が身近に居た人、接触した人に「伝播(シェディング)」するということである。
一度体外に排出したものを「再び取り込むように設定」されたスパイクタンパクであるから、それを伝播された人は当然体内に取り込むこととなる。
メッセンジャーによって「無害」という情報を刷り込まれた体は、これを「異物」と認識せず免疫は働かないが、メッセンジャーを接種によって取り込んでいない非接種者は、このスパイクタンパクを「異物」と認知し排除にかかるわけで、それによって「免疫反応」が喚起されるのは当然のことである。
免疫力が高いほどシェディングの影響が出やすいと言われるのはそのためである。
メッセンジャーによる騙しがあって尚、接種後免疫反応を起こして苦しむ人も多い。
それは免疫細胞が活発であることの証でもあるのだろう。
また、メッセンジャーによって「スパイクタンパク」を【認知】しないよう「免疫抑制」されてしまうわけであるから、他の病気にもかかりやすくなったり、潜在している病気が「活性化」してしまうことも頷ける。
ただ、この機序は単なる「科学的根拠」の機序であって、実際に起こっていることはもっと複合的な要素もあり「複雑」であるだろう。
だからワクチンには長い臨床を経た「承認期間」が必要なのであるが、それらをすっ飛ばして『何が起こるかわかっていない』状態で始まったのである。
そもそも接種した人は「何を根拠」にしたのであろうか?
おそらく接種を進める人の「言葉」だけを聞いて、それを語る「人」を見ていないのであろう。
人の「肩書」や上っ面ばかり見ていて、その「人」というものをちゃんと見ていないのだろう。
あれだけ『嘘』をついていることが丸わかりであったのに、「肩書+言葉」で簡単に人は動く。
「嘘」か「本当」かなど最初から「判断していない」わけである。
それは「自己判断」をすでに「放棄」しているからだろう。
自分で考え自分で結論を出すことは面倒なことであり、だから「誰か」に判断をゆだねそれに従っていれば「楽」であるから。
そんな「責任」のないところに居心地の良さを見つけ、そこに居続けているというわけである。
そして、何かあれば「誰か」を責めるだけ。
自分への「責め」がなければそれでいい。
だから「自分が責められる」ことはあってはならないわけで、「シェディングは無い」と言い張ることになる。
自分への「責」から「逃れる」ことが『第一義』なのである。
「有る」ものを「無い」とするのは『妄想』である。
そもそも「事実確認」などせず突っ走っているのだから、すでに『妄想』の中を生きていることになる。
「自己判断」を放棄して「事実確認」ではなく「他者の判断」を取り入れる時点で、それは「他者の物語」の中なのであり、「自分の物語」を創造出来ないわけである。
「何を言ったか」ということよりも「誰が言ったか」ということに重きを置く人は多い。
だから安易に騙される。
まぁ、散々地球を汚染してきた人類へのしっぺ返しなのだろう。
こうしてパソコンを使い、電気を使ってブログを書いている時点ですでに「業」の中にいるわけであり、そのしっぺ返しは甘んじて受けよう。
終わるべきものは終わらねばならない。
終わらなければ始まらないからである。
終わるべきものを人類が手放せなければ、いつまでも終わらず被害は増すばかり。
握りしめているものを放せば、とっとと終わるのである。
新しいものはとうに始まっている。
それは手放した者にだけわかること。
今、多くの占い師は未来を占えない。
それは捨てるべき過去の上に立ち、終わるべきものを握っているからである。
占術という技術は単なる道具であるが、それを使って「目指す未来」という「目的意識」がすでに過去のものであり「終わるべき」ものである。
占い師がよく語る「成功」も「勝利」も「栄光」もすでに過去の産物。
要は「舵」を握っているからなのであるが、その意味もわからないであろう。
だから未来が占えない。
ここからさらに「業の巡り」の渦は増す。
そして人はさらに「何かに掴まろう」として渦に巻かれゆく。
手放せるものだけが、その「渦」から外れられるのである。
そして、自分の魂の先にある「糸」だけは決して手放さないことである。
だが人は「目先の藁」を掴むのだろう。
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