【施術のリスク再評価】 《シェディング奮闘記》
シェディングの解毒と再伝播に関して様々な情報を取りながら知識を整理しているところですが、どうやら「リスク」自体を再評価する必要があると思いいたった。
シェディングを受けるということは、その受けたものを排出する際に、当然「伝播」することになるわけで、それは避けねばならないことである。
もはやシェディングを「全く受けない」などということは「希少」である。
途中、誰とも会わずに来られたなら、その希少性は計り知れない。
だが、多くの場合そうはいかない。
何がしかの人との接触は必然的に起こってしまう。
だから多かれ少なかれシェディングを「受ける」という前提が必須である。
だが、受ける質量の「多い少ない」はある。
だからといって「多い少ない」に関しては、非常に判断しづらいところがある。
接種者と非接種者では明らかな違いはある。
接種後の経過年数でも違いはある。
接種回数でも大きく違う。
実際、2回接種までと「オミクロン対応」となった3回目以降の接種の有無では大きな差異があると研究で明らかになっている。
そして、ラットの実験でも最高5回であり、現在、日本人は6回目接種という「ラットでの実験でも経験のない治験領域」に入っている。
そして、この6回目接種が始まってからのシェディングによる症状の重度はかなり増している。
人が多い時間帯に買い物に行っただけで、かなりのダメージを負う。
いわんやこれが「施術」となれば、相当にきついものとなる。
実際、4月末頃には体調が回復傾向にあったのだが、5月に入ってから、さらに6月になってからというもの、再び体調は崩れる一方である。
梅雨時期が重なってしまっていることもあるが、それでも一向に体調は回復傾向へと向かわない。
また、コロナが始まってからすぐに『免疫改善』という施術を行ってきた。
実はこれが「諸刃の剣」でもある。
お客さんの体調は改善し「免疫」が発動し始めると、当然体内にある「不純物」の排出が始まる。
つまり、免疫を改善することでシェディングをより多く受けてしまうという「諸刃の剣」なわけである。
だがしかし、それは「喜ぶ」べきものであり、自身の中に「織り込む」べきものである。
あとはいかに受けたものを「速やかに」排出するかということである。
それにはやはり「自分の免疫」がシェディングを覚えこんで、速やかに対処できるようになるよう「自らの身体の細胞をサポート」することだろう。
自分の身体というものは、自分の意思ではどうにもならないものである。
身体を構成する何兆という細胞に委ねるしかないのである。
自分の意思で出来ることは、それらを「サポート」することだけである。
身体とは自分ですら思うようにならない。
だから、他者の身体を「治す」などということは決して出来ないのである。
「治療」という言葉は単なる「行為」の「名称」にしかすぎない。
我々ヒーラーセラピストが「施術」するのと同じことであり、音楽家が「演奏」するのと同じことであり、料理人が「調理」するのと同じことである。
「治療」とは「治す」ことではない。
ただ「治療」とされる「行為」を実行しているだけであり、治る治らないは別の次元の話である。
ある高名な外科医が言った。
「私は今まで何千という手術を成功させてきたが、今まで一度も治したことはない。」
ということである。
「手術」という行為を「治療」と呼んではいるが、それは「治す」ということではない。
「治療」という言葉のレトリックに翻弄され勘違いするのである。
身体を治すのはあくまでも何兆という個々の細胞なのである。
そして、個々の細胞が連携したチームワークを発揮できて初めて「治癒」が起こる。
その中で「免疫」というのはいわば「兵」である。
それらの「兵」を退けて安易に「防御」しようとしたのがmRNAワクチンである。
mRNAの情報により命令系統が乱れて兵たちが対処できなくなっているということが、人の体内で起こっているわけである。
抗体という「ミサイル防御システム」を搭載したはいいが、そのミサイルが自軍をも攻撃し、さらには体外にまで出て他者の身体まで攻撃しているのが今の状況である。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的なミサイル攻撃を勝手にしているということだ。
それは、害虫駆除のために農薬を撒いて、土壌そのものを破壊していることと同じ哲学で出来ている。
今後、どんなに被害が起ころうとも、先へ突き進んでゆく。
ワクチンを推奨した医師や専門家たちは自らの過ちを認めるようなことはけっしてしないだろう。
誤魔化せるうちは誤魔化すだけである。
人とは得てしてそういうものであるから。
早めに改心できる人は稀である。
事が「重大」になって恐ろしくなっての「改心」は「改心」ではない。
後悔の念に苛まれることから逃げ出しているに過ぎない。
神の導きとは常に「本番実地」である。
私のこの体調不良も「本番実地」なのである。
すべては『実地の中で掴め』ということ。
霊の「祓い」や「浄化」するにも必ず「対価」となるものが必要であるのと同じように、体を浄化し整えるのにも様々な「努力」という「対価」は必須なのである。
何の対価も無しに「穢れ」は消えないのと同じく、体の毒を排出するためには、栄養素を取り入れたり、汗を流したり、体を労わったりとそれなりの「対価」を要する。
現在、これだけ体の「毒素」という「穢れ」が現れている状況では、霊的な「祓い」は二の次であるため、「八剱祓」などを現在取りやめている。
体に溜まる毒素は即霊体にも影響している。
それだけ「霊懸かり」だらけな状態なのである。
体の毒を理解し得ないのに、霊に懸かる毒などもっと理解し得ないだろう。
シェディングを受けていることに気付けなければ、自らの「霊懸かり」には気付けない。
ゆえに「祓っても祓っても」元の木阿弥にすぐに戻る。
今、霊界の狐狸天狗たちは「いとも簡単」に霊懸かりが出来ることを喜んでいる。
そんな状況が現出していることに、どれほどの人が気付いているか・・・・・・・
ということで「リスク再評価」が必要なわけである。
今優先すべきは「体」である。
ゆえに実際の「施術」を伴わないものを一体休止した次第である。
身体感覚さえ麻痺した状態で、どうして霊体の感覚がつかめようか・・・・
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