明日の旧九月八日(10月22日)にちなんで



もうしばらくはブログは書かないと言ったが、これだけは書いておこうと思う。



人類は今、大本教で示されてきた『大峠』の真っ最中である。

恐らく、もう「改心」は間に合わないところまで来ているだろう。



「魂の救済」ならばいつ改心しても問題はないが、人は得てしてそんなものを望んでいない。

ただただ今の人生の救済を望むばかりである。


人生の救済など他者に出来るわけがなく、本当に自分の人生を救いたいなら、魂を救済するしかないのである。

だが人はそれを避けて通る。

そうして「救済」を求める。



魂の救済という言葉だけで、いったい何がどのように救済されるのかなど考えつかないのだろう。

なぜ魂の救済が必要であり、なぜ魂の救済が人生の救済になるのかという「問い」さえしないだろう。

魂とは「何であるか」わからないままであるから仕方がない。

そして、「何であるか」を理屈で理解しようとしているから仕方がない。


『魂はこれだ』


それは言葉では教えられないが、見つけた時に「あぁこれか」とわかる道しるべならたくさんある。

だが、偽物の道しるべの方が多いだろう。



それは「探した者」にしかわからない道しるべである。

本気で探していれば本物の道しるべと偽物の道しるべなど簡単に見分けはつくのだが、人は楽を欲して「いちいち探さなくていい道」を探している。

それが「宗教」という『教えの型』であり、その『型』を『道』として「考えなくていい」道に進むということである。


だから魂は救済されない。






未来は・・・・

AI(エーアイ)の台頭がすさまじくなる。


ところで、AIに取って代わられる職業というものを想像している人も多い。


では、AIとは何なのか?

人工知能

確かにその通りだ。

だが、もっと言うなれば「人工左脳」のほうが合っている。



これだけ書けばわかる人はわかるはず。

『今は大峠』


今、世界で何が起こっている?




そして『岩戸開け』が来る。


岩戸開けとは何ぞや?


天照大御神とは何ぞや?






長年、人は月の世界である『月読命』の世界で生きてきた。


それは他ならぬ『左脳世界』


そして、『月読命』は御退隠なされた。

そして岩戸開けが来て『天照大御神』の御登場である。



そんな最後の仕上げに「悪神」は何を仕組んだか?




いずれ『グレン』と天地がひっくり返る。

それは『意識』がひっくり返ることであり、『認識』がひっくり返ることである。




『月読命』は御退隠されたというのに、まだ『月の世界』の残影にしがみついている。

旧世界の恩恵に預かっている者ほど手放せない。

そして、未だ旧世界の『恩恵』を求めてやまない人々。




旧世界の恩恵を『AI』が持っていこうとしているのであるが、そこにしがみついて手放せない。


恐らく、今起こっていることで「手放さざるを得なくなる」だろう。

『月世界の優等生』ほど・・・である。






未来には、医者はおおかた『AI』に置き換わっている。

たぶん『先生』などと呼ばれていた大多数は『AI』に取って代わられるだろう。

優等生であればあるほど・・・・である。



日月神示であれほど『芸術せよ』と言われていたが、すべては見越してのことであろう。



ひふみ神示 黄金の巻 第八十三帖
光る誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。





岩戸開けはかつての『天照大御神』の御登場ではない。

日の大神様と月の大神様の「一対」の『日月の大神様』の御登場である。


月の大神は月読命ではない。


日月の大神様とは「火水の大神」であり「厳瑞の大神」であり「霊(ひ)身(つき)の大神」である。

天地和合の世界である。



そのために『月読命』は御退隠なされたのである。

もはや 神は神、人は人という世界は終わりなのである。




この2~3年の間で『感覚』を失った人は何をした?

『優等生』と呼ばれる人ほど、そして、そう思われたい人ほど何をした?


それが答えである。


そして、彼らはまだまだ先へ行っても同じことを続けるだろう。

自らの魂を貶めながら・・・・・





話を最初に戻そう。


魂を救えるのは自分しかいない。

それは、魂を貶めているのが「自分自身」だからである。


自ら貶めている「その手」を放さなければ、魂に救いはない。

そして、貶めているからこそ人生も救いが無くなる。



自ら貶めているその手を放せば、そこに自ずと神は現れるのである。




ひふみ神示 黒鉄(くろがね)の巻 第三十八帖
人間の死後、自分の命の最も相応しい状態におかれるのであるそ。
悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。
極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。 

めでたさの 九月八日の 九のしぐみ とけて流れて 世界一つぢゃ
白銀(しろがね) 黒鉄(くろがね) これで終り。
ーーー旧九月八日ーーー



ひふみ神示 松の巻 第三帖
神烈しく、人民静かにせよ。云ふた事 必ず行はねばならんぞ。天から声あるぞ、地から声あるぞ。身魂磨けばよくわかるのざぞ。旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心 獣ぞ。神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとはその事ざぞ。