『思念は見える』~癒奏術・修祓の導き 《癒奏術・龍宮ノ章》




感覚が研ぎ澄まされたものにしてみれば、人の思いの『思念』は手に取るように解るもの。

命のやり取りをする武芸者や武闘家にとって、『思念』の応酬は当たり前のことであり、それが出来るから「機先を制す」「先の先を取る」ということが出来る。


人は常に『思念』を放っている生き物であり、その『思念』によって「パーソナルスペース」を構築し、『思念』の範囲内に入ってきたものに対して「反応」しているわけである。


そんな『思念の範囲』を見れば、その人の「察知能力」というものがわかる。

そして、この『思念』こそが【気付き】の原動力でもある。



『思念』によるパーソナルスペースの広い人は、より多くのことに対して【気付き】を得る。

それは言うなれば「アンテナ」であり、『情報』を収集する能力ということである。



昨今の人はこの「パーソナルスペース」が異常なほどに狭い。

それもそのはず、常に「何か」に「気を取られている」状態だからである。

電車の中でも道端でも、人は「スマホ」の中に意識を「取られている」状態で、自分の周りに「パーソナルスペース」自体が『無い』人も多い。



この『思念のアンテナ』は「現実世界」を認知するものであるが、これが失われスマホという「小さな四角い二次元」の中に入り込んだ人は、三次元を認知する能力すら衰え、常に二次元世界に没入している状態である。

家ではテレビの画面の中に没入し、常に「何か」に没入していないと落ち着かないという状態にまで至っている。

それはつまり「現実」よりも「非現実」に没入していることであり、そういった人にとっての「現実」は「非現実」の「二次元の幻想世界」であって、三次元世界は「架空世界」となっている。


だから「現実は幻想」などという思考が発生する。



ただ、いくら二次元世界に没入していても、『思念』は漏れ出ているわけで、その『思念』を画面の中に飛ばし続けながら消耗していっていることに気付かず、その消耗によって「現実世界」へ向ける意識が失われ、より中毒性のある二次元世界のコンテンツへ吸い寄せられてゆく。



「気を取られる」ということは「気」を持っていかれているわけで、本来向けるべき現実に対して気が向かなくなっている状態であるから「気枯れ」しているのであり、だから「穢れ」が寄り付くのである。


当人は「気力がある」などと思っているようであるが、それは二次元の「思念世界」だけの話であって「現実世界」の姿は『無気力』そのものである。



『思念』という「気のアンテナ」を失った人は、いとも簡単に『病』に罹る。

現実世界においては『闇』の中に居るも同然の状態であるため『病み』に罹るのは必然である。



画面から離れても『思念』は「現実世界」を捉えようとせず、常に自分の『内側』へと向かっており、だから他人の「変化」に気付かない。

そして、常に自分の『思念』の中に閉じこもっているから、現実の「自分」にも気付かない。


もはや『現実』とは何かさえわからなくなっているのではないかと思われるほど、身体と思念が一致せず『別次元』に存在している状態である。

そして、「二次元世界」の中で「三次元」「四次元」「五次元」という『二次元の思念』の仮想世界を彷徨っている。


だから「現実は幻想」という答えに至る。



『現実世界』とは『示現世界』であり、それこそが【神素戔嗚】の領召(しろしめ)す【大海原】である。



多くの人はScreen・Sports・Sexという3S(スリーエス)により「気」を取られ続け、現実世界のその身は「気枯れ(穢れ)」の状態であるのだが、すでに現実世界に関心を失った人がそのことに『気付く』ことはなく、自ら『穢れ』を呼び込んで『病み(闇)』に侵されてゆく。




先日、久しぶりに電車に乗ったが、案の定人の思念は『闇』を纏ったかのように『心ここにあらず』の人で溢れていた。

人で混雑する空間に入ると、途端に目や皮膚が「チリチリ」と痛むのだが、そんなことにも気付かないほど「仮装世界」に入り込んでしまっている。

そして、思いの『思念』は仮想世界を通って何処かへと飛んでいる。

それが凝り固まれば『生霊』となるのだが、そんなものを平気で飛ばしているのである。

現実の自分に気を配らず、想念の中で気を練りこんで「飛ばして」いるのである。

そんな擬古した思念に感化され、自分も同じような思念へと傾いていることに気付かない。

擬古した思念という『生霊懸かり』状態である。




【風の時代】というのは、良いものも悪いものも瞬時に運んでくる。

風邪をひくのは「風」から始まり、熱や淀みや渇きや寒さへと至るのと同じで、心身に「気配り」の防御を無くした人は簡単に風邪をひく。

身体が病み、心が病み・・・

しかし、現実の自分に意識が向いていないため、自分が「病み」の状態であることさえ気付かない。



【病み】とは何か?


だれかに「診断」されるから「病気」なのではない。

本来の自分が自分でなくなっている状態が「病み」なのである。


では自分の「本来」とは如何なる常態か?



それを知るためには「現実認識能力」を取り戻さなければならず、「現実」を認識するためには「現実の自己」を認識することである。

この「三次元世界」に【素戔嗚大神】の恵みを受けて『示現』された【自分】を認識しなければ、現実世界には戻れない。

そして、それを認知出来るのは身体に備わる「五感」であり、その「五感」を領召(しろしめ)すのが【伊豆能売神】たる五柱の男神と五柱の女神。


その中で『呼吸』を司るのが「満干の珠」を持つ【乙姫命】であり、この「呼吸」が「意識と無意識の境界」に唯一存在する。



本来の自分を取り戻す最初の「意思」を介入させ得るのが「呼吸」であり、その「呼吸」を取り戻すことでその他の「穢れ」を祓う。



霊界物語の中では、攻め込まれた神々のもとに現れた龍神が「満干の珠」で悪神を追い払ってから「反撃」が始まった。

その「満干の珠」は人の身体では「呼吸」であり、五行の中の五臓の「肺」を司る【天津彦根命】と【乙姫命】である。

その両神が生み出す『不動心』は【天目一(あめのまひとつ)命】の『一つ目龍』である。

その『一つ目龍』が【肚】を錬成する「鍛冶師」となり、自分の【軸】を取り戻すために魂を槌打って【劔】を錬成し、「本来の自己」へと回帰する。


ここが正念場の『転機』であり、【道】を分かつ時でもある。




恐らくここから半年間。

時間はそれくらいしかないかもしれない。

それまでに自分を取り戻せるか?


本当の「正念場」である。




【素戔嗚大神】と【乙姫命】が反撃の機会を与えてくださった。

それは【素戔嗚大神】の慈父心と【乙姫命】の慈母心であり「最後の慈悲」となる。


現実世界を司る【瑞の御魂の神】が与えてくれた『改心』の最後の機会である。




【癒奏術・修祓】は現実の肉体の【軸】を取り戻し、本来の【呼吸】を取り戻し、自分の【心】を取り戻し、『病み(闇)を祓う』禊ぎの施術です。

【乙姫命】の『満干の珠』の力をお借りして、【天目一】の『一つ目龍』が起こす「渦」の力をお借りして【軸】を取り戻し【肚】を錬成する。

ぶれない「不動心」を取り戻して「本来の自己」を自分の中心に据えるため、身体と心に【軸】を取り戻す。

どちらが欠けても【軸】はぶれる。

心と身体、日と月が一致しなければ、【柱】は完成しません。

けっして曲がらない「剛」の「日の柱」と、けっして折れない「柔」の「月の柱」。

この二つが一致して初めて【草薙劔】となるのです。



あぁ、そういえば来年は辰年か・・・・