夢の中の神霊界修行 《癒奏術・龍宮ノ章》
最近、ずっと夢の中で修行が行われている。
何かに出くわしたり、おかしな者に出くわしたり・・・
そのたびに
『さあ、どうする?』
と問いかけられる。
けっして答えは教えられない。
自分で自分が出来ること、すべきことを見つけ出して行い事件を回避する。
それが「癒奏術」の施術となる。
人が「目覚め」に向かう時、様々な「邪」に遭遇するが、ほとんどの人はそれが「邪」であると気付かない。
むしろ「宇宙様」「神様」「守護神様」などと呼ぶ。
それらを「いかにして超えるか」というところを「施術」へと繋げていくわけである。
だがどうやら施術だけでは足りないらしい。
それは、私自身が夢の中で「陰陽道」を使っていたからである。
正確に言えば「霊」を使うということである。
「霊龍」であったり「霊劔」であったり・・・・
だが一般の人はそんなこと出来ない。
「さあ、どうしようか・・・」
目覚めていつものように神棚に御神酒を供えて祝詞を唱えて・・・・
「あ、そうか」
と気付いた。
『霊を型に依り代わせる』
以前にも『守護まもり』として書いたが、同じように「意図」を与えて「式神龍」を依り代へ込める。
「場のまもり」と「人のまもり」として二つの守護符を書いてみた。
場のまもりとしての『盾』と、人のまもりとしての『矛』
場の守護「摩利支天四方守護龍符」
人の守護「毘沙門天劔龍護符」
二つの護符にドーマン(九字)セーマン(五芒星)を入魂してある。
ドーマンとは「蘆屋道満(あしやどうまん)」で、セーマンは「安倍晴明(あべのせいめい)」であり、ドーマンの六芒星、セーマンの五芒星という意味合いである。
私が五芒星を使うのは「守護」の時であり、ゆえに「四方守護」に五芒星を入魂して「隠形の摩利支天」の役を「龍」に与えて「場のまもり」とした。
そして「九字」は密教でいうところの「九字斬り」であるが、通常の九字とは違い私独自の「劔斬り」の九字を入魂し、「毘沙門天」の役を「龍」に与えて「劔を帯刀」するように常に人の身近にあるようにした。
人が目覚めに向かう時、必ず『魔』が寄ってくる。
多くの人はそれで曲がってしまうわけである。
だからそれらを近づけないようにするためのものとして二つの神龍符を作った。
だが、上へ上がれば上がるほど悪霊は強くなる。
護符で対処できるのは限度がある。
『悪神』となれば式神龍では敵わない。
だから目覚めへ向かう人の心の強さは当然求められる。
イエスは40日間これらの悪霊、悪神と対峙して屈することがなかった。
悪神はけっして「悪」の顔をしていない。
「善」の顔をしてやってくる。
それを『毘沙門天の宝塔』で照らして見抜ければ、あとはその人次第である。
「嘘でもいい」「騙されてもいい」から「快楽」を求める心があれば、いくら見抜き「劔」を携えていても全く無意味なのである。
だから多くの人は「目覚めて即曲がる」のである。
自分の意思が「高天原」に届くまであきらめない人にしか、この先の「癒奏術」の施術は無意味である。
目の前に、鼻先にある「高天原」が、まだまだ遠い次元にある。
そこに辿り着くまでには様々な障害が待ち受けている。
それらを突破し「高天原」に辿り着く意思があるなら、必ず高天原の神々が手を差し伸べてくる。
神々はそれを今か今かと待っているのだから・・・・
いい加減「楽」を求めるのはやめることだ。
「便利」さや「合理性」の裏側にある「楽を求める心」こそが悪神の仕組みなのである。
善の裏に「堕落」の悪が潜んでいる。
そこに引っかかれば、即曲がって落ちる。
悪神も「神」である。
堕天使も「天使」である。
この道理がわからなければ、高天原に辿り着くことは出来ないだろう。
守護符はまだ完成ではないですが、この二つを「施術」とともに渡していくことになると思います。
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