【五感の岬(此岸)】に立つということ ~癒奏術・修祓の祓い 《癒奏術・龍宮ノ章》




四次元世界は「何処に」あるかというと、それは当然「三次元世界の先」である。

しかしほとんどの人は「二次元」の方へ向かう。

天地逆さである。



三次元の世界を「感得」するのは身体に備わった「五感」である。

そして、その五感は「三次元のものしか認識」出来ないわけではない。



人の身体の周りを包むようにして存在する「エーテル体」は三次元世界では認識出来ないことになっている。

だがしかし、それが『在る』ということも理解している人がいるわけで、だからそのような「名」が存在し、およそそれがどのようなものかということも説明されている。


では、それを認識した人は三次元に居ながらどのようにして認識し得たのか?

「誰かがそう言っていたから・・・」

などという答えはナンセンスである。



実際にエーテル体は視認できたりする。

「たまたま見える」という理由はわからないが何故か見えるという人もいるだろう。

だが、それ以外にも認識出来るのである。

それが『肌感覚』というもの。


研ぎ澄まされた『肌感覚』は、皮膚の周りに存在する「エーテル体」を認識する。


いや、もっと言い方を変えよう。

『肌感覚』はごく当然のように認識しているのだが、脳のほうが追い付いていない。

だから『肌感覚』が伝える情報を的確に判断し得る「脳」へと『研ぎ澄ませる』ということである。



五感は常に『情報』を受け取っているのだが、実は『脳』のほうが着いていけない状況なのである。


それは何故か?


左脳が邪魔をしているからである。

「そんなものはない」

左脳はそのように判断しているから、実際に「意識」に上がることなく「消されて」しまっているのである。

「そんなものはない」という認識は『後天的』に植え付けられたものであり、幼い幼児の頃には当然のように感じていたが、言葉を覚え「常識」というものを教えられる過程で「その可能性を排除」されるわけである。



そんな「エーテル体」のようなものとして「人の思念」がある。

人の思念は「エネルギー」という質量を持っており、思念を「向ける」ということで方向性が与えられ移動する。

その移動したエネルギー体が肌に触れれば肌感覚は認識する。

だが、脳がそれを「写し取れるか(認識できるか)」は別であり、多くの場合「左脳によって排除」され「意識」に上ることは無い。

だが、感覚を受け取る『脳』の曇りを取り磨きに磨いて研ぎ澄ませば、肌が感知した「感触」を認知可能となる。

「曇り」とは邪魔する「左脳の意識」と「感知の鈍った右脳」の意識である。


そして、様々な「感触」を何度も感じ、それが「何であるか」を確かめ続けることで、やがてそれが「何々である」と判断できるようになってくる。


それは「肌感覚」だけでなく、その時に生じる「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」など様々な「感覚」をも同時に感じ取ることで、より鮮明に「種別け」が行える。



明敏な感覚の持ち主というのは、感覚を「受け取る力(写し取る力)」が磨かれているからである。




生まれながらの霊能者というのは、霊に特化した明敏な能力である。

だがしかし、それはいわば「向こうからやって来た情報」を受け取る力であるわけで、自ら「取りに行ったものではない」ということでもある。

つまりは「意図されたものを受け取っている」ということになる。


何が言いたいかというと、そこからさらに「先へ」進んで、霊の側へと行くということが「情報を取りに行く」ということであり、そこまでいかなければ受け取った情報の「真偽」はわからないのである。


簡単に言うと「テレビしか見ない人」の情報と「いろいろ調べる人」の情報の明らかな差異と同じである。

要は「騙されて」いてもわからないということになる。


だから昔から「審神者(さにわ)」ということが行われていたわけである。




あちらの世界が良く見える場所まで行って確かめる・・・・

それが『五感の岬』に立つということ。



岬から見えるのは『潜像世界』の波打ち際の「瀬」である。

その「川の瀬」には此方と彼方に岸がある。

此方の岸が『五感の岬』

そこから瀬を渡れば彼方の岸である『彼岸』へと入る。

そこは『六感』の世界。

五感の岬の『向こう岸』の感覚の「四次元潜像世界」となる。



そこは様々なものが『混同』された世界であり、生ある霊(個の意思を持った霊)も人の思念も死霊の残滓もごっちゃになって存在している。

その混同されごっちゃになったものを整理していくことで、今度はそこから更に進むことが出来るようになる。

だがそこには「騙し」が存在する。


その「騙し」に対して「揺れない」心であるならば、混沌の中に『正しい導き』を見出せる。

歪んだ導きに従えば、そこから先へは進めない。

正しい導きに従えば、そこから更に先へ進むことが出来る。


そうして今度は「四次元の岬」に立つことになる。

その先にようやく「五次元」と呼ばれる『中枝の神々』の世界となる。

そこは「守護霊」「指導霊」などと呼ばれたりする者たちの世界。


だがそこには明確な「霊格」というようなものが存在する。

全てを見てきたわけではないし、すべてを見られるわけでもないが、その示現の「霊人」の「御魂の根源」によるものなのだろう。

更にその上の【神】の御魂であるならば、常に上の【神】と繋がっており、だからそこからさらに上の次元へと導ける。



世界線としての四次元と五次元はここから(三次元)では区別はつきにくい。

だが、「霊人の格」は明白にわかる。

彼岸の岸辺で徘徊している霊などとは違い、神意を宿した霊人は【神】といえるだけの存在感があり、力があり、目的がある。

下の次元(三次元)と上の次元(神の次元)の「結びの次元」であることをちゃんと理解している。

多くの霊人はそのことが念頭に無いようである。



いわば「人が神と繋がれない」のはそのためでもある。

守護霊、守護神と呼ばれるはずの次元の霊人が「結び」であることを完全に失念しているからである。




【癒奏術・修祓】はここまで行って『禊ぎ祓い』を行うものです。

いわゆる「守護霊」「指導霊」「守護神」であるはずの霊人の『禊ぎ祓い』を行うもの。

『結び』を忘れた者が、思い出せば善し、思い出さねば禊いで整え、それでもだめなら祓いで祓う。


三次元の人のせいなのか、五次元霊人のせいなのか、どちらも禊いで祓わねばならない。

人も「修め」ねばならず、霊人も「修め」ねばならず・・・・・

人の修祓と霊人の修祓

これで『結び』が修められねば、次なる【雷華】へは進めないのです。


人は五感を認識する【日の鏡(右脳)】を磨かねばならず、霊人は【神】を感得する【鏡】を磨いて『結び』を修めねばならぬのです。