【道理】から外れた『教え』の中の【呪い】 《癒奏術・龍宮ノ章》


「チャクラ」というものの存在を、便宜上わかりやすくするために様々な呼び方や名前や色などが後々(あとあと)付されていったのであろうが、それがかえって本質を分かりにくくしてしまっている。

それは「四次元」のものを「三次元」に現わし、さらに「左脳」へ理解させるため「二次元」に現わしたにすぎないのだが、そこから「四次元」へ戻す作業を示したものが無く、「二次元」に現わした状態でそこへ向かおうとしているわけである。

だからいつまでたってもたどり着けない。


例えば、便宜上名付けた「第1、第2・・・・・」という呼び名があるため

『第1チャクラから順番に開く』などという事が起こってしまう。

だがこれを名付けた者は本質を歪めてしまったことに気付いてはいないのだろう。

しかし、長い年月の間「第一から順番に・・・」という作法が取られてしまっているところをみれば、いかに「歪めた」かがわかる。


「ただの名前」と認識出来る者は幸いであるが、それを「順序」としてしまうのは人の性である。

数字が打たれればそこには「順」が発生する。

そして、それが『呪い』となって「順」に囚われる。

本来は無いはずの「順」が、数字を付することで「呪い」となるのである。

そして人は長い間、その呪いに懸かりながらチャクラを開花させようとしているわけである。


だから「第7チャクラ」は『最後』と思い込む。

だが実際はここが最初なのである。

そして「第7チャクラ」と「第1チャクラ」は表裏一体。

天の岩戸と地引きの岩戸である。


この天地の二つの「岩戸」を開かなければ、残りの五つの「チャクラの花」は咲かない。



だがそれでも人は再び「第2から順番に・・・」などという囚われの中で思考する。

いかにこの「名づけ」が呪いであることか・・・・・・




例えば、目の前のコップを取るとき、指を「順番に」動かすものなど居ない。

手を動かした時にはすでに指は「コップを持つ」という形に「転化」している。

そしてそれは「五本の指が同時に」転化しているわけであり、親指から順番に形作るものなど居ない。


チャクラの道理も全く同じことであり、一つずつ「順」に動くなど道理から外れている。


五体も五本指も五感も、すべて「同時」に発動し「転化」しているのである。

その「転化」の流れとして一つの方向性はあるのだが、それは「一つの」であって「全て」ではない。



例えば「五行の巡り」というものがある。

ここに記されているのは五行の「相生」という円の流れと、「相克」という「五芒星」の流れであるが、実際の「巡り」には様々な「渦」がある。

ここで記されている「流れ」は、『養生』という一観点から見た時に有意義となる流れを示しているに過ぎないわけで、それ以外の観点から見た時には別の「巡り」が現れる。

大事なのは、ここには「始め」も無ければ「終わり」もない。

そして、これは「肉体側」から見た観点でもある。


これを「魂側」から見れば次のようになる。

『陰陽五行』は【一霊四魂】となり、同時に「チャクラ」も見えてくる。

そして、そこには「伊豆能売の神々」が息づいている。


伊豆能売神については以下の記事も参考にされると良いでしょう。




そして、ここで記されている「色」についても「後付け」の要素が入り混じっている。

数字で「順」を付けたように、色も「虹彩」の「順番」に当てはめているだけである。

また、その「位置」も「一つの観点」に過ぎず、それも「二次元」に現わした際に『このように現わした』というものである。


こうして人は多くの『呪い』に縛られてしまっているわけである。




「一霊四魂」という時、「荒魂、和魂、幸魂、奇魂」というふうに「順番」に語るため、そこでも勝手に「順」の呪いに懸かる。

巡りの「流れ」はあれども「順」など無い。

「役割」はけっして「単体」では行えず、だから「巡り」があり「流れ」があり「干渉」があるということ。

だから「チャクラ」に関しても「単体」では発動しないのである。


単体で発動しないのに、どうして「一つずつ単体」で開発しようとしているのか?

それが『呪い』というものである。



例えば、身体に於いても「心肺機能を高める」という時、「心肺」だけを高めることなど無理なのである。

心配を高めるための運動をするには、その分のエネルギーが必要であり、気力も必要であり、栄養の精査も必要であり、不要分を捨てる機能も必要であり・・・・

それらは脾、肝、腎の機能が不可欠であり、すべてが相まって高まらなければ心肺も高まらない。


チャクラも「巡り」の中で常に影響し合っている。

だから「第2チャクラを高める」という時、他の4つのチャクラも高めなければ意味がないのである。

そしてそれが『道理』なのである。



それらと同じく『神話』の中にも多くの「呪い」が肉付けされている。

またその中には「順」もある。

神々にも「順」はある。

されどそれは「流れ」「巡り」の『方向性』という『順序』や、大小、上下、東西南北、役割、様々な「順」の要素が入り乱れている。

それを「一つの観点」から示さなければ「言葉」という「二次元」では示せないから示されているわけである。

つまりは「始まり」と「終わり」という「二点」の中に「順」に物語は綴らなければならないという『制約』があるからに過ぎない。

だがそれは「二次元」に降ろして開いて「始点と終点」に「一列」に並べたということ。

そうやって『神話』という「物語」の形となる。




チャクラの「個々」に囚われ、「色」に囚われ、「順」に囚われて『呪い』に懸かった状態では、その『呪い』に誘われる方向へ曲がってゆく。

それらは「左脳」が統べる「二元」の世界で生み出される「念」となり、自らを「念」で塗りつぶしていくようなものなのである。

「順」と「色」と「位置」という呪いの通りに、その「位置」にその「色」の「念」を「順番」に『凝らせて』いっているだけである。

さらには、『クンダリーニ』という『念の蛇』を凝らせて、その身に『念』で生んだ『蛇』が懸かった状態になる。

『念の蛇』など凝らせて生み出せば、そこにどんな『霊』が寄り付くかわからないのであるが、恐らくそんなことは気付かないだろう。


恐れの念には恐れの「霊」、怒りの「念」には怒りの「霊」の波長が感化する。

念が凝れば「生霊」となり、まずは自分に懸かる。

その「念の凝り」が人に向けば、その念は「生霊」となり人に向かう。

「念を凝らせる」ということは「潜像世界」に「実体」を生むこととなり、「潜像世界」に現れた実体は、いわば「エネルギーの固まり」であり、そこに「霊」が寄り憑いて、エネルギーの実体という「衣」を纏うこととなる。




本来、浄いはずの婆羅門(月弓)の教えから、「天狗」や「鬼神」のようなものが生まれているのは、念を凝らした者の「心の姿」そのままなのである。

それは、教えの中に入ってしまった『呪い』によるもの。

だから、磨けば磨くほどに「天狗」となる。

天狗の鼻が高いのは「順」の呪いでなのである。

鼻高で他人を見下し突きたがる者は「カラス天狗」となる。

潜像世界は心がそのまま姿となるのである。


そんなものが目の前を飛び交っているのだが・・・・



『呪い』というものは知らず知らずに入り込んでいる。

だから『穢れ』が生まれ続ける。



『自分で自分に懸かっているであろう呪いを見つけて自分で解く』

それが『禊ぎ祓いを修める』ということ。

それが『掃除洗濯』であり『御魂磨き』である。



そして、ここで書いているのも『祓い』の一環である。