人は死んでも何も終わりじゃない 《癒奏術・龍宮ノ章》




正直、「神事」というものを今すぐにでも辞めたいところではあるが、なかなかそうもいかないものだ。

ため息をつきながら「わかっていますよ」とつぶやく日々・・・

誰に対してつぶやくかというと、それは『神々』であり、「お役」の中にある『英霊たち』であり、人として「お役」を務め、亡くなったのちも「お役」を続けている方々・・・・



『まだ終わっていないぞ』


だから彼らも日々努めている。

死んでなお、続けている。




終わりじゃない。

人は死んだからと言って何も終わらない。

船乗りが船を降りたからといって人生が終わらないように、次の船出まで「船を出す」ための役目があるように、何も終わらない。


荒波の中、木の葉のように揺れる船を、沈没せぬよう、進めるよう、陸から指示を伝える『神々』や『英霊』たち。

彼らの声が「辞める」ことを留まらせる。




そんな『声』に混じって『阿鼻叫喚』が沸き立つ。

『一体何が起こっているんだ?』と、ざわめき叫ぶ霊たち。


守護神、守護霊などと呼ばれながら、「何事か」ということすらわからぬ。

何が善で何が悪かもわからない。




世に「悪人」と呼ばれるものたちは、ちゃんと『役目』を果たしている。

「悪」と見えるのは「破壊」であるから。

だがしかし「破壊」せねば「建て直し」は出来ないのである。


「悪のお役」は「破壊のお役」

「善のお役」は「建てるお役」


自分が善だと言うならば、さっさと「建てる」ことを始めよ。

壊すことも造ることもせぬのを「真の悪」というのである。



壊れ行くものをさっさと手放さず握っているから「悪」と見える。

握っているものを「奪われる」と思うから「悪」と見える。


壊れ消えゆく運命のものを握っているから壊され奪われる。



それではいつまでも【羅生門】は通れない。




悪のお役は「役目」が終われば「悪」ではなくなる。

壊すものが無くなれば壊す行為は無くなる。


されど、無くなって尚「破壊」に走れば、それ以上の「悪」は神が許さない。




この「破壊」に巻き込まれれないようにするのが「鳴門渡り」

そのために神々も英霊たちも役目を果たし務めている。


その声を聞け


きちりとわかっている『英霊』と、何もわからぬ『霊』の声。

聞き分けられねば鳴門に沈む。



今、聞けぬならば死んでも聞けぬ。

死んだ世界に囚われて、再び「次元の枷」をはめて生きることとなる。




この世の人が「改心」せぬように、霊の世界でも「改心」せぬ。

『英霊』たちは苦労している。



守護霊が変われば人が変わるように、人が変われば守護霊も守護神も「変わる」のである。


守護より先に人が「神」と結べば、それによって守護も変わる。

変わらねば「替え御魂」するまで。

「お役御免」となる。




よいか

「破壊」が「悪」のお役目ならば、「破壊のお役」を邪魔するは「偽善」であるぞ


「お役の破壊」と「役外の破壊」

きちりと見分けねばならぬぞ


「破壊」が行われるときには、「お役」ではない「破壊」も行われる。

それは「真の悪」である。




「悪」も「型」である

「善」も「型」である


きちりと「型」を現わせ

有耶無耶にするは「悪」ぞ

何もせぬは「悪」ぞ





ひふみ神示 松の巻 第二十二帖

世変りたら生命長くなるぞ。今迄 上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ。