【神産み神話と人の誕生】 《癒奏術・厳瑞劔》




【木花咲耶姫命】は自ら産屋に火を放ち、炎の中で神を産んだ。

そして、そこに現れた「龍神」が、炎に包まれた産屋から、産まれたばかりの御子神たちを助け連れていった。


これは「人」の【誕生】と等しく重なる。


産屋とは子宮

放たれた「火」は「弥栄の歓喜」

そして「火」は「血」であり、「炎」は「血潮」。


【木花咲耶】が主(つかさど)るは『心臓』であり『血潮』である。

『歓喜の血潮』が産屋(子宮)に湧き立ち、新たな生命が誕生する。



産屋から御子神を連れだした「龍神」は【乙姫命】

【乙姫命】が主るは『肺臓』であり『呼吸』である。


赤子は母の胎内から出て初めて自分で『呼吸』をする。

ゆえに【乙姫龍】が現れる。



だが赤子は体内に居る時から『外気』を取り込んでいる。

自分で呼吸はしないが、母の呼吸で外気を取り込んでいる。


それが【豊玉姫】と【玉依姫】が居る所以である。

母の呼吸は【豊玉姫】

産まれて自ら始める呼吸は【玉依姫】

どちらも【乙姫命】である。



誕生して『臍の緒』を切るのが『丹塗り矢』

禊ぎの貴船川は『産湯』

【火雷神】は【木花咲耶姫】の新たな『分身(神成)』

御子は産声を上げて『御子神』と一心同体なり。





この三年の間、木花咲耶姫と乙姫は徹底的に攻撃を受けている。

「心(しん)」に宿る【木花咲耶姫命】と、「肺」に宿る【乙姫命】が徹底的に害されている。

しかも人は「自らの意思」でそれを行ってきた。


「肺」が病み、「心」が病み、血潮が病み、全身へと巡る。

身体の中を巡る無数の悪神は、【市杵島姫命】の「脾」を犯し、多紀理姫の「肝」を犯し、多岐津姫の「腎」を犯し、身体の中で湧きに湧く。

神界で起こった出来事の如く、人の体内にまで「写し鏡」として現れた。


【木花咲耶姫】が住まう『富士の山(心)』が最も狙われ攻撃されている。




「人は神」であり「人体は神」そのものである。

だがそれを「物」としか見ぬからこのようなことになった。





今回、【厳瑞劔(いずのめ)】という新しい癒奏術の『技』が生まれたのは、【乙姫命】の悲哀の叫びでそのものである。

もはや『満干の珠』をもって祓い浄めるしかないと。

その『満干の珠』を『施術』に転化するために、かなりの時間を要したのは「不足」しているものがたくさんあったからである。

それらを埋めるために「漢方」を勉強し、「武道」を再認識するため「空手」まで学んだ。

そして、自分の身体に起こっている変化を見つめ、それでもまだまだ「足りていない」と思うばかりである。


三途の河原の此岸と彼岸に『場』を設けるため、妖(あやかし)まがいの霊たちを退けねばならず、それらの者たちとの攻防を繰り返し、『場の浄め』を今続けているところである。


「何でこんなことをしているのだろう?」


そう思うことばかりである。




身体の『神(しん)』を犯された人の魂魄は、明らかに【神】から離れて行った。

「落ちている」

ということに気付けた人はどれほどいるのだろうか・・・


身(み)を身(しん)と言うのは『神(しん)』に通ずるからであり、心(こころ)を心(しん)というのもまた同じ道理である。

芯(しん)というのも『神(しん)』に通じ、つねに「真ん中」に据えねばならぬという意が込められている。




心が病むとき、必ず身体も病んでいる。

そして、身体が病むとき、心も必ず病んでいる。

どちらか片方だけは無く、常に表裏一体である。

そして、身(しん)と心(しん)が病めば、必ず神(しん)も病んでいる。


「病み」は「闇」であり「見えない」ということ。

自身の身体も心も「見えていない」状態は「闇」であり、だからこそ『禊ぎ祓い』をせねばならぬのである。

そうして「闇」を払拭せねば、守護神共々「闇」に囚われた状態なのである。


自らの「霊」の守護は「身体」であり、「身体」の守護は「霊」である。

身体が穢されれば霊も穢されるが道理。



此岸彼岸の河原には、闇落ちした霊で溢れかえっている。

それらすべてをどうにかしてやることなど出来ない。

だが、闇から抜け出し光を放てれば、闇は払拭されてい行く。



一人の光の灯火は「千人」を照らすという。


闇の中では穢れは見えない。

されど灯火で照らされれば見えるようになる。

見えれば変われる道も開ける。



そのための【厳瑞劔(いづのめ)】である。




身の闇を祓い、霊の闇を祓い、霊身一致せねば【神】への道は開かれず、道が開かれなければ【神人一致】は為されない。


身を蔑ろにするは神を蔑ろにすることに通ずる。

心を蔑ろにするも神を蔑ろにすることに通ずる。


蔑ろにしたこの三年

改心して禊ぎ祓い浄めることである。



それが伊豆能売の神々の最後の慈悲である。