【陰陽反転・半回転捻り】~瀬織津姫の大祓いの術理 《癒奏術・厳瑞劔》
さて・・・・
【癒奏術・修祓・雷華・多々羅】の新たな施術の導きは五年前から来ていたものである。
しかし、そこに至る現実世界での「知識」が追い付いていなかったため、五年の月日を経てようやく陽の目を見ることになった。
それは「エネルギーの対流」の【論理】がようやく認識できるまでになったおかげである。
五年前、突然降りて来た言葉
『陰陽反転・五行相和』
それを
『陰陽反転させろ』
『さらにもう半回転捻れ』
と告げられたもの。
エネルギーの流れ・・・
言い方を変えるなら「気の流れ」でもある。
人の正中線を通る前後の経絡を「任脈・督脈」という。
背面を頭頂まで駆け上がる気の「陽の流れ」が「督脈」
前面を頭頂から駆け降りる気の「陰の流れ」が「任脈」
この督脈と任脈をグルグルと回るように流れている気の流れを「小周転」という。
そして、「地」で『陰陽反転』して足の方を流れる気流がある。
横から見ると「8の字」を描くように流れる気流である。
つまり、上半身の周転は「陽の周転」
下半身の周転は「陰の周転」となる。
【神】は「天上」に居るだけではなく、大地の下にも【神】の「天」がある。
そして、地の下にも「太陽」がある。
空ばかり拝んでいてはダメなのである。
さらに立体的に見るとこうなる。
このエネルギーが通るということは『岩戸が開ける』ということ。
「天の岩戸(天)」と「地引の岩戸(地)」である2つのチャクラ(第1・第7)が開いて「天地」のエネルギーを取り込みながら循環し、その膨大なエネルギーをもって「クンダリーニ」の蛇が目を覚ます。
それを今度は【龍】へと転化させることで「5つのチャクラ」が開花する。
身体の中心(軸)を『渦を巻きながら』常に対流しているエネルギーであり、天からのエネルギーと大地からのエネルギーが「中心(柱)」を巡るように渦巻く。
柱を巡って伊邪那岐命と伊邪那美命が出会う・・・・
これが『高天ヶ原』にまで繋がる『柱』であり、【神人和合】の要となる。
身体だけ訓練しても意味は無く、心だけ磨いても意味は無い。
心身両方を磨かなければ岩戸は開かない。
そして、霊身一致しなければ柱は立たない。
それゆえに【修祓】によって「身(み・水)」を禊ぎ(身削ぎ)、【雷華】によって「霊(ひ・火)」を祓い、「火水(かみ)」を結ぶ柱を立てるための【多々羅】となる。
そのために、禊ぎを修め、祓いを修め、柱を修める必要がある。
施術はその「露払い」と「道」を創るもの。
その道を自ら歩かなければ【神人和合】には至らない。
その「歩く」ことが「修める」こと。
伊邪那岐命は光の世に居る。
されど伊邪那美命は「闇の世」に居る。
ゆえに「闇」から逃げては「地引の岩戸」は開かない。
闇を直視し、悪を抱き、闇と光を調和で巡らせ、悪と善を調和で巡らせる。
その覚悟が必要なのである。
自分の中に光あれば闇もある。
善なる部分があれば悪なる部分もある。
それは至極当然なこと。
それらを「まるごと抱く」ことである。
光は闇へと回帰し、闇は光へと回帰し行く。
善悪もまた然り。
「調和」とは「転化」
光の極みは闇へと至り、闇の極みは光へと至る。
だから悪は善へと転化する。
善は悪へと転化する。
その「理(ことわり)」をまるごと抱くことである。
なぜなら、すべての人にそれらは備わっている。
光だけの者はおらず、善だけのものも居ない。
それは【神】とて同じこと。
何を善とし何を悪とするのか?
ただ巡っている流れの「一部」を切り取って善悪を決めている自分を知ることである。
巡りを切り取り流れを止めれば「悪」は「悪」のまま示現し続ける。
ゆえに「悪」を見たならば、「善」へと巡る流れへ転化することが「悪を抱き参らせる」ということ。
つまりは『合気』の力。
悪は「流れ」の一部分でしかない。
その「力の流れ」を『陰陽反転』させること。
さらに『半回転ひねる』ことで流れは変わりやすくなる。
抵抗するのではなく「無抵抗」にて「流れ」を変ずる。
それが『調和』の「転化」である。
そしてそれが【神】の『理(ことわり)』そのものであり、人の在り方そのものであり、エネルギーの流れの『理(ことわり)』そのものなのである。
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