【神と人の関係】~人世で染み付いた人間関係の歪み 《癒奏術・山桜の章》




神と人との関係には、人の世のような「上下」などというものはない。

存在しているのは「方向」であり「順序」である。

それを『フトマニ』という。



大なる太神から神々、霊、そしてこの世の人という「流れの理」があり、その「流れの方向」「流れの順序」は変えられないものである。

だが、流れが「先である」からとか、順序的に差があるとか・・・・

そのように思うのは、人の心の「穢れ」そのもの。

人が勝手に自らの尊厳を捻じ曲げた結果生まれた「心」である。

自らの中に「上下」を付ける心があるから、神にも上下を付け、神と人にも上下を付ける。


大仰に神に頭を下げる「その心は如何に?」




祝詞をとなえるとき、神に深々と頭を下げる。

それは「お願い」しているからであり、そして「流れ」を受け取るために「低く」なるわけである。

高いところから低いところへ流れるというのは、この世だけの論理ではない。

すべては一つの「道理」が示現しているだけである。

だから「頭(こうべ)を垂れて」低くして、恵みを「いただく」という姿勢であって、人の世のピラミッド社会の上下のように「自分を蔑(さげす)み遜(へりくだ)る」のではない。

それは「穢れ」である。


自分を蔑み遜るのは、自分の心に「天狗」が棲んでいるからであり、人を蔑み(下げ素見)遜る(縁下る)自分の心がそうさせているのである。




流れの順序というのは、一二三四五六七八九と流れ、十で結ばれ、そこから九八七六五四三二一と「戻る流れ」へと転化する。

流れは呼吸と同じであり、一二三と流れ、三二一と返る。


自分の中に「天狗」が棲み、自らを蔑み遜る心があれば、それがそのまま三二一と返ってゆく。

それは神は「祓わねば」ならぬ「穢れ」なのである。


自分の上の存在、「中枝の神」がさらに上の神と「繋がれない」のは、『穢れ』が返っているからに他ならない。



天照大神と素戔嗚命の「誓約(うけい)」の前段階で、素戔嗚命が天に来ると言った時、天照大神は「穢れ」を恐れて武装した。

それは「穢れ」があれば「祓わねばならない」からである。

だが「穢れ」は無く浄められていたから「誓約」が結ばれた。


人が神と結ぶには「穢れ」があってはならぬ。

それが「道理」なのである。



人は人の社会の中で安易に頭を垂れる。

大事なのは「その心」

神へと返せる「心」であるかどうかである。


神社に行って頭を垂れて願いをしても、そこに「穢れ」があれば「祓われて」いくだけである。



では何を願う?


本来は「不足」を願うものである。

この世(この次元)ではこれこれこういうものが「足りません」から・・・と願う。


だが人は、不足してもいないことばかり願う。

充分「足りている」のに不足を言って願い事をする。

だから願いは途中で「祓われる」だけである。



こちらで出来ることはこちらでせねばならない。

こちらでなければ出来ないからである。

こちらで出来ず、あちらでなら出来ること、そんな中で「不足」を申せば応えてくれる。

それしか出来ないのであるから・・・・・


やれることをやって、あとは天に任せる。


何もせず不足を言っても穢れとして払われるだけである。




この世の人はこの世での神々の手足も同然なのである。

言う事を聞かないからといって、神は自ら好んで自らの「手足」を切り落とそうなどとは思わない。

だが、一向に言う事を聞かない手足は放っておいて、言う事を聞いてくれる手足を使うのは「当たり前」のこと。

咽喉が乾いて飲み物を取ろうとして、右手が言う事を聞かなければ左手を使う。

だからといって右手は切り落とさない。

当たり前の道理である。

その「当たり前」が人はなぜか理解できない。



国常立大神は五体バラバラにされた神である。

ゆえに「手足を切り落とす」覚悟を持って『今』という時を迎えている。

言う事を聞かない右手なら『草木からお出直し』とまで言っているのである。

それは「神界を含めた三千世界の歪み」をきちんと「立て直す」ためである。

自分の手足が及ばない間に、歪みに歪んだ世界を「道理」へと戻さなければならないからである。



「穢れ」を抱えたままでは「帰れない」世界となっている。

かの神が不在であった時の理屈は通用しない。

ここ数千年の「歪んだ理(ことわり)」はもはや無いのである。

今までと同じ輪廻転生も無い。

魂が穢れを多く抱えていれば、禊ぎ(身削ぎ)祓われて残った少しの魂の「かけら」で「草木からお出直し」である。



神から流れてくる清水が、自分を通して返るときに「濁り水」となるなら、自分のすぐに上の霊は穢れ、直属の神は穢れ、霊界を歪め、神界を歪める「穢れ」となる。

そのために霊界も神界も「穢れ」が湧いて戦争状態になったわけである。

穢れが習合し大蛇となって・・・・



三二一と流れて穢れた世界は浄められ、それが一二三となって返ってきているのが今であり、今という時は大蛇の退治の時となる。

神界では終わっている。

あとはこの世が祓わねばならぬ。


この世の祓いは「ツケの払い」

ゆえに「ツケを払う」が【神事】である。



その「ツケを払う」のに全く手が足りぬ状態。

言う事を聞かぬ手足ばかりなのである。


ツケを払うまで還れないのであるに、ツケを払おうとしない御魂ばかりなり



「ツケ」とは穢れの「溜まり」である。

魂の穢れ、霊の穢れ、直属の神の穢れ

これが祓われねば「流れ」に還ることは出来ない。

一二三四五六七八九㊉九八七六五四三二一 という呼吸の流れの中で「溜まった穢れ」である。

㊉(自分)が穢れれば九が穢れ、さらに八が穢れ・・・・となる。

九も穢れを祓わず、八も穢れを祓わねば、七で祓い、六で祓い・・・となる。


追い返されて「輪廻転生」して「祓い浄める」はずが、さらに「穢れ」を溜めておるわけである。

そうしてツケが溜まっていくばかり・・・

浄まらねば「手足」とならず、手足とならぬならこの先の弥勒世界となるこの世には「転生」はかなわない。


せっかくツケを払う「時」を神が与えてくれているのに、それでもまだ溜めこむ「性」が染み付いてしまった魂たち。

天狗となって人を蔑み、人に遜り・・・

神にまで「情け」で篭絡しようという御魂たち。

その性根が霊界に跳ね返り、霊界も「情け」で縺れ絡まる世界。

中枝の神々も「情け」で縺れ絡まる世界。




頭を垂れて謙虚に見えども、その心は天狗である。

「頭を垂れる」は ただ「与える」こと。

「与える」は「頂く」こと。

自分という器を与えて、意を頂く。

流れと順序である。


祝詞をとなえて頭を垂れるは、祓い浄めの矛先を指し示せと教え願い、その意を我が身に流すこと。



先が見える神々は、人の綾を細かく織りなす。

素直になれば機織りは美しくなる。

それが人生を美しくすることである。


神の意は我が意である。

自分と思っているものを履き違え、見えなくなった闇(病み)の中にいるから、いつまでも「自分」がわからないままである。

神の糸の先にある自分を、わけのわからない「霊」の情けに振り回され、それを「自分」と思っている履き違え。

自分の御魂が自分の身体を履き違えている。

それは、霊が履き違え、直属の神が履き違えしているから。

だから「神」の段まで昇って祓わねばならぬのである。


だが、肝心の神の段の自分が「浄めよう」と思わなければ、その意は器まで伝わらぬ。

だから「草木からお出直し」というのは「神さえ例外ではない」のである。






ひふみ神示 地つ巻 第十六帖

神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。

上に唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。



カゼの巻 第十二帖

日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ。慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ。




春の巻 第二十三帖

順と区別さへ心得て居れば、何様を拝んでもよいと申してあろうが。日の神様ばかりに囚われると判らんことになるぞ。気付けおくぞ。それでは理(ミチ)にならん。父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。おかげないぞ。おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。手だけ尊んではいかん。足だけ尊んでもいかん。一切に向って感謝せよと申してあろうが。門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。順序を馬鹿にしてはならんぞ。いつ迄門に立っていても何もならん、お出直しぢゃ。川がなければ水流れん道理。始はカタふんで行かなならんぞ。