『情け』が生んだ【悪平等】の世界~八岐大蛇の大渦 《癒奏術・山桜の章》




ただただ人を攻撃したいから「正しい」ことを言う人の多いこと・・・・ 



ただ「正しい」だけの、「心」も「魂」も全くこもっていない「正義」 

それはただの「悪」でしかない。 


「正しい」から「善」なのではない。

「間違っている」から「悪」なのではない。 


正しさも間違いも、理屈であり視点であるだけ。 





人の「善悪」の物差しは、ほぼ「情け」である。

それは恐らく今までの「宗教」というものが影響している。 


「布教」のために「情け」深い物語を利用して、人の「情」に絡みついて「信者」を増やすやり方が、「情け深さ」イコール「善」という物差しとなった。

だから「宗教」というものが、ほぼほぼ「情け」に絡みつく。 


それが基本となっているから、善悪、正邪も「情け」が基準となる。

そして、「愛」すら「情け」へと変貌している。 


「情けは人の為ならず・・・」


それが真実である。 




【神】を語り「情け」を拡げるは【悪】 


人は【悪】が好きなのである

人は「情」が好きなのである 



「情」が「愛」へと昇華するとき、人は大人になるのだが

昇華せぬまま「情」を「愛」へとすり替えて大人のフリした子供たち


「情け」に満ちた「善行」で『慰める』を「愛」と言う

寄り添い、労わり、慰め・・・・ 


いくら「情」を与えども、すぐに乾いてもっともっとと欲する

いつまでも「情」に浸っているのが「幸せ」 



「情」は自らの心の「欠け」を埋める一時の慰み

だが「水」でいくら満たしても、やがて「水」は流れゆく 

流れて再び「欠け」が浮き上がり、またぞろ「情け」を求める


「欠け」が埋まらぬ限り水を求め続ける 

 だからその場からいつまでも進むことが出来ない


「欠け」を埋めることが第一

「欠け」を埋めてくれるものが「愛」

「欠け」を満たしてくれるものが「善」

「欠け」を忘れさせてくれるものが「幸せ」 


「欠け」に囚われ鎖で繋がれ、それをその場にとどめる「情け」


哀れみも、慰めも、労わりも、やり方ひとつで「善悪反転」するもの 


優しい行為にも「善悪」在り

「愛」に見えようとも「悪」在り 


「愛」に見える「悪」がはびこる世界

それは「〇(側)」だけの優しさ

優しい「〇(側)」を纏った「・(悪)」に翻弄される「情け」の世界 



「〇(側)」ばかり見て「・(芯)」を掴めぬから騙され続ける 

優しい言葉、労わりの言葉、慰めの言葉

言葉はただの「〇(側)」である 


「情け」を「愛」と勘違いした人はいつまでも「情け」に囚われ続ける 

それは自分が「欠けている」ということに囚われているということ

自分が「満たされている」ことを知らないままであるということ 


自分が「欠けている」と思い続け、「満たされない」と思い続けているから

「情け」を欲し続ける。

「欠け」を埋め続ける

「水」を欲し続ける。 


 それは「自分は欠けている」と固定し続けることとなる。


優しさ、労わり、慰めが「欠け」を「肯定」させ続けているんだよ。 



欠けている、足りていない、満たされていない、不幸である・・・・

それを「確定」させ「固定」し続ける優しさ、労わり、慰めは、善に見えても悪なのだよ。 



「〇(側)」ばかり見て「・(芯)」を掴めないから、善悪が見えずわからず、悪を善と思い、善を悪と思う。 


どんなに優しい言葉、労わりの言葉、慰めの言葉で満ちていようとも、真ん中に愛の火(・)が無ければ「悪」へ転がる。 



宗教は「蔦草」である。

情けで人を絡めて広がる「蔦草」である。


布教のための美しい優しい物語は、蔦草を拡げる「情」に満ちている。

それを「愛」とした者は、心が湿り粘質となりゆく。


真ん中に「・(火)」ではなく「・(水)」を置いてしまえば

「神(火水)」から離れて「巳身(水水)」となる。


だから「横」にばかり広がるんだよ。 


「横」に広がり「情け」を伝播し行く「巳身」たち。

「〇(側)」ばかり見て「言葉」に囚われ、言葉の中の「・(芯)」に気付けないのは、自分が「欠けている」と思っているからである。 


欠けているから満たされるのが「愛」。

欠けているから満たしてやるのが「愛」だという勘違い。


その勘違いは「傲慢」であり「不遜」であり「悪」であるのだよ。 



「欠け」とは何ぞや?

「穴」とは何ぞや?

「満たされない」とは何ぞや? 


「欠け」てもおらず、「穴」など開いてもおらず、「満たされて」いるにも関わらず、そう思わせるものは何ぞや? 


「同じでない」ということであろう。

「人と違う」ということであろう。

「在る無し」ということであろう。 


 要は「比べている」のであろう。 

 比べて「劣っている」部分ばかり見ているのであろう。 


劣等感を握りしめ、劣等感を慰めて、劣等感を覆い隠すばかりの「愛」という「悪」

だからいくら「愛」を語ろうと行おうと、真ん中に「・(悪)」が収まっていれば「悪」へと巡る。 

 だから同じ言葉で同じ優しさ、労わり、慰めの言葉でも、「・(真ん中)」にあるものが「火」と「水」では「善悪反転」しているのである。 


真ん中が「・(水)」である者は、「・(水)」に群がる。

真ん中が「・(火)」である者は「・(水)」がすぐにわかるから忌避する。


いくら「〇(側)」である言葉が、同じ言葉、同じ優しさ、同じ労わりの「〇(側)」であっても、「・(中身)」は真逆である。 



杉が柳を見れば自分には「しなやかさ」が無いと知る。

柳が杉を見れば自分には「真っすぐさ」が無いと知る。

だがそれは「欠け」ではない。

「劣っている」ものでもない。

「優れている」ものでもない。

「在るべくして在る」姿というだけである。


杉は杉として満たされており、柳は柳として満たされている。 


だが人は「違う」ものを「同じ」としたがり、「違う」ものを「欠け」とし、「欠け」を「劣っている」とするところに『岩戸閉め』が施されている。


それが「蛇」の知恵

「⦿(巳身)」の知恵であり呪いでもある。 


「情け」に引きずられる者たちは、大蛇の胴体となり行く。

「情け」の蔦に絡めとられて、「〇(側)」だけ善の悪へと流れる。 




ひふみ神示 黄金の巻 第八十八帖

日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ。分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ。総てのものを先づ感受せよ。その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ。 



五十黙示録 五葉之巻 第九帖

平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。 


第十帖

悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。