【天秤座満月・月蝕】~女神アストレアの嘆き 《癒奏術・風の章》
「たわけ者」とか「このたわけが・・・」という言葉がある。
『愚か者』とか『馬鹿者』という意味であるが、何故「たわけ」と言うのか?
その昔、朝廷は人々から「もっと税を取れないだろうか?」と、そう考えてとある税制を施策した。
長子相続であった田畑を「兄弟姉妹」で分割相続させ、だがそれでは収入が減るからと、「開墾」を促した。
これを『田別け』と言う。
「開墾した土地の分は無税とする」
『それなら』と人々は開墾を活発にし、それで豊かになっていった。
豊かになったことで人はさらに増えて、だからもっと開墾を拡げていき、豊かさは広がていった。
だが、ある年の天候不順で飢饉が訪れた。
その飢饉で多くの人々が死んだ。
人心は荒廃し、あちこちで争いが起こり、やがてそれは闘争へと広がていった。
だが朝廷は何も手は打てない。
増えすぎた人を賄うだけの備蓄も無く、そもそも飢饉など起こるとも思っていなかったわけであるから、どうしたらいいかもわからない状況である。
そんな荒廃した世の時に生まれたのが「自警団」である。
その自警団の頭領となっていったのが「源氏」であり「平氏」である。
朝廷に変わり混乱を鎮めるための自警団は、やがて「武士」となっていったわけである。
徳川家康が「長子相続」の施策を採ってきたのは、戦乱自体の根源をよく知ってのことである。
「豊かさ」というものを履き違えた人がどうなるかということは、歴史がちゃんと教えている。
だが、現代の施策はどうだ?
『田別け』そのものである。
歴史から学んでいないのではない。
歴史から学んだ上で「あえて」行っている。
そして人々も「豊かさ」を履き違え、「増える」ことを「豊かさ」と認識し、その反面で起こるであろう事象に目を向けようとはしない。
無限ではないものの上に立ち、無限に豊かさを求め続け、だから人は餓え渇いているのである。
「豊かさ」という高尚な言葉を盾にして、その裏側に「欲得」を隠し「悪徳」を隠して貪りゆく姿は、イナゴの大群そのものである。
誰かが悪いで片付くものではない。
長蛇の列を為した人々が、大蛇の如く大口を開けて「豊かさ」を求め行けば、起こるべくして起こることが起こるだけである。
「目覚めた」と言うものほど、大口を開けて豊かさを貪りゆく。
「愛」の名のもとに貪りゆく。
誰かが悪いから、その「誰か」が居なくなればいいなどという夢物語で、自分の罪を擦り付けているに過ぎない。
留まることを知らないこの「大蛇」は、自らの尻尾までも呑みこみ始めている。
その「渦」が行き着く先など知れている。
だがそれでもやめない。
【女神・アストレア】が天秤を捨てて天へ還ったように、天から見守るしかないのである。
天から下界を眺めれば、大蛇となった人々は救えないのは一目瞭然である。
九割八分は大蛇となって「豊かさ」の盾を持ち群がれば、それは大蛇の「鱗」のようにしか見えない。
「愛」を掲げるものは「鱗」に彩りを与え、それが大蛇の模様のようである。
大蛇の群れから外れ、限りある大地と調和し得る者は、大地がそのまま守護となる。
だが「調和」を履き違えた者は、「調和」の盾を「鱗」とする別の蛇となる。
「正義」を履き違えてその「旗」を掲げる者たちは、イタチの如く牙をむき「正義」の仮面で「悪」を為し行く。
「闇が暴かれた」と喜ぶ者たちは、他者の闇には目を向けても、自分の「闇」には目を向けない。
「光」の反対側には必ず「闇」がある。
その「闇」を抱かず「光」の面ばかり見ているから、光を拡げているつもりで実のところ「闇」を拡げている・・・ということになる。
「闇を照らす」とは「光で闇を消す」ことではない。
「闇」を照らして「闇」を見て、その「闇」を「光」で抱くことである。
調和とは「闇」そのものの存在も「認める」ことであり、その「闇」を「光」で調整するのが「調和」というもの。
在るべくして在る「闇」を「無き」ものにするということは「調和」ではない。
光と闇の調和は「一対一」が調和ではない。
「三対二」
それが「陰陽調和の要」
伊弉諾大神と伊弉冉大神の「和合の姿」である。
光が増えれば後追いで闇が増える。
如何なる闇が増えるのか?
目を背けているからわからない。
「豊かさ」や「愛」や「正義」を、大口開けて追いかけるその後ろには、「闇」が確実にあるのだと、追いすがっているのだとも知らず、ただただ高尚な「善」ばかりを追い求め、結果、認知しない管理できない「悪」を世界にバラまいた。
【女神・アストレア】の天秤は「善」と「悪」の『バランスをとる』天秤である。
善に傾けば善は沈み、悪が浮き上がるのは理(ことわり)である。
善の裏に在る悪を無視すれば、悪が沸き立つのも自明の理。
「田別け者」が群がり起こる大蛇の渦に絶望し、女神アストレアは天秤を捨てて天に還った。
善悪のバランス、光と闇のバランスをとろうともしない人々に絶望し、天秤を捨てて行ったのである。
女神に見放された地上は、自分で自分を呑みこんでゆく大蛇によって終焉を迎える。
それが人の選んだ道なのである。
五十黙示録 至恩之巻 第九帖
千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。
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