【赤心】~神風に乗る龍心 《癒奏術・風の章》




スピリチュアルで語られる「引き寄せ」であるとか、「思考が創造する」であるとか、言うなれば『思考』に囚われた人たちが、さらに『思考』を狭めることで「望んだ未来を引き寄せる」という私から見れば完全なる『岩戸閉め』を行ってきたことで、それらの人々は未だに「次元上昇」というものを『察知』し得ない。

察知し得ないから、自らの狭まった『思考』が認知できる範囲の『情報』に頼り群がり、よって『似た者同士の集団』という塊となってゆく。


逆にスピリチュアルなどとは全く無縁の人たちが、自分の『感覚』というものに目覚め、その感覚に『信頼』を築き上げていたりする。

一度、自分の感覚というものに『信』を置ければ、その目覚めた感覚の「つぼみ」はやがて花開く。


だが、スピリチュアルの世界には「誤情報」や「ミスリード」が蔓延し、『感覚』を「左脳思考」で処理させる罠が様々ある。

そのため罠にはまって抜け出せなくなってしまった人が、いわば『岩戸閉め』をしてしまい、閉じた岩戸の中でさらに「洞窟の奥」へと向かっているのだが、それを何故か「次元上昇」と呼んでいる。



外国のスピリチュアルというものは『思考』が出発点である。

そして『自分』が出発点である。

対して日本人の本来の『霊性』は『感覚』が出発点である。

そして『全体』が出発点である。


その『真逆』のものを『真逆』とも捉えられず、だから猶更外国人より岩戸閉め率が高くなる。

要は『迷子』の状態である。


だが、頑なに『思考』を握りしめ、『感覚』を置き去りにしたまま『思考創造』したものを『感覚』と呼び、『霊性』と呼び、『目覚』めと呼んで追いかけているばかりである。

よほど『感覚』を捨ててしまったのだろうと思う。



何故こんなことを書くかと言うと、2021年から『感覚』というものが「開かれる」人と「閉ざされる」人が完全に真っ二つに分かれ、もはやそれらを取り戻すことが難しくなっているからである。



スピリチュアルなど無縁な人が「邪気」を感じはじめ、それらを「避ける」ようになっている中、スピリチュアルの集団は相変わらず「邪気」を放つ塊となっているからである。

一体何のために情報を集めて来たのだか・・・と思わざるを得ないほど、スピリチュアル集団は「邪気の塊」へと変貌し、その固まりの「団結力」という「堅く重い波動」で自らを防衛していることに気付かない。

その「閉ざされた思考空間」でのみ「自由」を求め、より狭い思考空間へと自ら歩を進めている。

根底にある「集団」という「同調」に引き寄せられているのだが、それらを「調和」や「統合」という言葉に置き換え、「同じ」でるという安心感を求め、それらにブレーキをかける「感覚」を自ら率先して捨てているのである。


感覚とは「在るものを在る」として認識する。

だがそれを「無いもの」とする思考で自らの感覚が察知する不快なものを排除しているわけである。

つまりは「在るものを在る」として受け入れようとしていないわけである。

「在るものを無いもの」として思考転換してしまうことを「引き寄せ」などと言う。

そして「無いものを在る」として思考転換もするわけである。

それは「右脳」に映った『事実』を「左脳」で「逆さま」にしてしまうという事であり、それをもって「引き寄せ」とか「思考の現実化」とか語っているわけである。

だがそれは実質的には「引き寄せた」のではなく、それ以外は「受け付けない」が正しいのである。

気に入らない現実を「塀の外」に追い出し、気に入るものだけを「塀の内側」に招き入れる。

その行いの連続が、『塀』をどんどん狭めているのだが、それをもって「幸せ」ならいいではないか・・・という論理の組み立てなのである。


全然いいのであるが・・・

だが圧倒的多数のそれらの「蛇」が全体の流れの大多数を占める時、甚だ迷惑な事象となるのである。



自ら垣根を作り世界と「調和」することを拒んだ魂は、自らが発したものによって世界から、調和から「拒まれる」のである。

ただ単に「思考が現実化する」などと思っている者は、自らの「思考」が自らの「行動」に反映し、それがただ単に「事実」として残るだけであることまで見ていない。

思考は「調和」という言葉を発しているが、行動は「調和」とは真逆のことを行っているわけである。

そこから得られる「事実」は「行動の結果」なのであって「思考の結果」ではない。

単に「思考のつじつま合わせ」をしただけで、その後起こった事象、事実に関しても「見たいものだけ見て」つじつま合わせの結果を「思考」の中で繰り広げてゆく。

そうやって現実世界から自らが作った塀の中に閉じ込もり、一生懸命『箱庭』を育てているわけである。


スピリチュアルにバラまかれた罠

それはまるで蟻を捕獲する罠のようである。

そして、芳しいエサのにおいに誘引された人々は、その罠の中に進んでいった。

非常に単純な思考誘導ではあるが、単純な構造ほどかかりやすいものである。



スピリチュアルだけに留まらず、『感覚』を自ら麻痺させていった人々は、もはや『感覚』が無いことで「幸せ」を感じている。



「喜び」を追いかけるという事は、その根底に「悲しみ」や「恐れ」を『避ける』という衝動が「根付いている」わけであり、それらを「避ける」行動が「喜び」を追いかけるという行動になっていることに気付かない。


赤子にとっての好奇心の先に「恐れ」や「悲しみ」を『避ける』などという心は無い。

ただ好奇心の赴くままに進み、その結果「悲しく」なったり「恐ろしく」なったりしても、時間が経てば行動原理の好奇心の中に「恐れ」や「悲しみ」を『避ける』などというものは消え失せている。

「喜び」は単なる「一結果」に過ぎないのである。

同じく「悲しみ」も「恐れ」も「怒り」も単なる「一結果」に過ぎない。


だが大人たちはその「一結果」にあまりにもこだわり囚われ、自らの好奇心を自らで抑制し縛り付ける。

だからいつまでも「喜び」に到達できない。

出来ないが「恐れ」や「悲しみ」や「怒り」が「無ければ幸せ」という『辻褄合わせ』で、それこそが『喜び』であると・・・・思考で結果を転換しているわけである。


だが、それでも「自由である」と自分に言い聞かせるように語る。

そして再び「言霊」であるとかなんとかであるとか・・・・様々な「辻褄合わせ」ばかり行うわけである。




『風の時代』とは『風に乗る』時代である。

自分の足の下に踏ん張れる大地はない。

身を持たれ寄りかからせるものも無い。

にもかかわらず未だに「それら」を求めて彷徨う人々・・・・・

あれほど神々が『大声』で叫び続けてきたものを、全くと言っていいほど受け取れなかった人々・・・


『もはや刻限である』という神々の『裁断』が下っているのであるが、目を塞ぎ耳を塞いできた人々には届かない。



俯いて足元ばかり見ている人の視界から、消えゆく人々が一人二人と増えてゆくだろう。

自分の足元と前後左右にばかり気を取られている人々の視界から、飛び立った人々は消えてゆく。

同じ世界に居ながら、空から大地は良く見えるが、大地から空を見上げる人は少ない。

空を見上げた人は自分の翼を繕い、これから少しづつ飛び立ってゆく。

そして、飛び立たなければ様々な風に気付かない。

それらの風の中に「風招ぎ」する神風がある。

その神風には「赤子の心」でなければ乗れないのである。




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