『したい事』を探すより『したくない事』を排除する ~色即是空の掃除洗濯 《神人一致の理》
自分が『したいと思う事』を追いかける人は多いが、追いかけているものがはたして『本当にしたい事』なのか一向に自信が持てていない。
何なら「そう自分に言い聞かせている」だけのようである。
そして、それが「間違い」でないという「証明」を自分にし続けるという・・・・
そんなことをしていたりするわけである。
そもそも「したいこと」だけをすることなど不可能であり、何が不可能かと言うと「感情」はそんな論理的な型に収まらないからである。
かといって「感情」だけで「したい事」を選べば、それは単なる「わがまま」となる。
しかし、「わがまま」とならなければ「したい事」をし続けることは出来ないわけである。
したい事はしたい
だけど「わがまま」とは見られたくない。
だから「間違い」でないという「証明」を自分にし続ける。
では、そんな「証明」は「したい事」なのであるか?
そもそもどうして「したい事をする」などという言葉が流行ってしまったのか・・・・
「したい事をする」ということを自分の中に探している時というのは、実は「自分の内側」を見ているようで見ていない。
「自分のしたい事は何だろう・・・」と思いを馳せる時、それは自分の外側にある何かしらの「型」を見つめている。
仕事であったり趣味であったり・・・そんなものの「型」を追っている。
どうして「型」を求めるのだろうか?
「したい事」というのをどうしてわざわざ「型」にはめようとするのか?
「したい」というのは「型にはまった事」ではなく「衝動」なのである。
その時々の衝動、その場その場での衝動。
言葉で識別する以前の「衝動」なのである。
それを「言葉」という「識別」で「型」にはめようとしているのが「したい事を探す」ことであり、だから迷うことになって「自己承認」を続けなければならなくなってしまうのである。
「衝動」は常に「型」にはまることは無い。
しょっちゅう「型」から逸脱する。
だから逸脱するたびに不安になり、自己承認せずにはいられなくなるわけである。
受・想・行・識
この中で「したい」の位置は「想う」である。
「したい事をする」は「想と行」の連続である。
つまり「受けた」状況に応じて何がしかを「したい」と「想い」、反射的に「行動」したことが「したい事をした」状態であり、それを最終的に左脳が「識別」して「型」を組み上げているのである。
「好きだから」という理由で先に「型」を決めてしまっても、「好き」は常に一定して「好き」であるわけではなく、「好き」もまた「したい」と同じ「衝動」であり、それは「何がしか」の状況を「受けて」発動される「衝動」であり、「受ける」ものが「必ず一定して同じ状況」であることはなく、だから「衝動」も「一定」した反射が起こるわけではない。
だから頭の中でいくら「好きな事は何か」を考えたところで、「好き」も「したい」も「衝動」なのであるから、それは「経験」の中からしか見いだせないのである。
だから「経験のない」ことをいくら考えたところで、または「少ししか経験のない」ことを思い出してみたところで、それは「好きかもしれない」というだけのことであり、それは左脳が「好きな事を探す」という指令を受けて構築した単なる「幻想」なのである。
そもそも、そんな「衝動」をどうして「左脳」で探すのか?
「衝動」とは心という空(から)の器に湧き立つ「雲」のようなもの。
その雲は「五感」から入って来た様々な情報に反応して沸き立つ「雲」である。
つまり「受」から「想」が沸き立つのである。
そして、沸き立った「雲」が流れる「風」が「行」である。
自然の「雲」が沸き立つとき、気圧差、温度差によって水分が上昇気流によって沸き立つのと同じように、心の中でも同じ現象が起こっている。
「受」という状況は「火」という熱を持ったもので、それが「心」という「水面」に接することで水蒸気が発生し上昇気流を生んで「想」という「雲」となる。
「雲」を発生させる「気流」は「五感」による「感覚」である。
そして、発生した上昇気流はそのまま「風」となり「雲」を押し流す。
それは「五感」が反応して「雲」に最善の「風」を送るという「反射衝動」となるわけである。
その一連の動きが起こったのち、左脳が「識別」をして「衝動」に「理由付け」をするわけである。
だがここで一つの問題がある。
「衝動」の「理由付け」の「正否」が起こる。
何故そんなことが起こるのか?
それは「左脳」の曇りによって起こる。
「左脳」がこれら一連の連鎖を「正しく」写し取れていれば問題はないが、これを「あえて歪ませて」写し取る場合が多々あるからである。
それを「囚われ」と言い、「執着」などとも言い、「思い込み」などとも言う。
言い方はどうでもよい。
要は「識」を司る「左脳」という水面が「平らか」ではないということ。
鏡が「歪んでいる」「曇っている」「偏っている」という表現でもいい。
つまりはそのせいで「識」を誤るわけである。
そんな「誤る理由」は多々あり、だからそれを「掃除洗濯」というわけである。
ここで話を最初に戻すが、つまりは「したい事を探す」ということは、はじめから「偏り」を生むことであり、「歪み」「曇り」を生むということである。
つまるところ「したい事」という言葉の「認識」を履き違えてしまっているから起こるわけである。
「したい事」というのは、その時々の「衝動」であるものを、わざわざ「好きな事」というカテゴリーという「型」にはめようとするところに問題があり、それがいわゆる「囚われ」であり「偏り」であり「歪み」となるから、歪んだ鏡に映る姿は歪んでいるわけで、だからその「歪んだ肖像」に反応してしまうから、その後に連鎖する「受想行識」がどんどん曲がっていってしまうこととなる。
そんな「曲がってしまった」自分をいちいち修正しなくてはならないために「自己承認の理由付け」を常に行わなければならなくなるわけである。
般若心経的に言うと「色」が付いた状態ということである。
だから「色即是空」と言っている。
「色」=「識」である。
これを「色即(すなわ)ち是(これ)空なり」というふうに「色・即・是・空」を『一文字ずつ分けて』考えて多くの人は間違いを犯している。
これも「色」という「囚われ」である。
ブッダは「色が付いたら即刻空に戻せ」と言っているわけで、空に戻さなければ次に訪れる「色」は『前の色の上塗り』になり、それは本来の色とは「違う色」となるわけである。
「空即是色」
空にまたすぐ次の色が来る・・・だから「色が付いたら即刻空に戻せ」とブッダは言っているわけである。
そうしないと「受想行識」の連鎖の「正常性」は保たれないわけである。
つまりは「したい事」「好きな事」という「色」の上に「新しい色」がいつも重なることになる。
だからそれは「囚われ」となり「歪み」となり「偏り」となり、その後の行動が「曲がって」ゆくこととなるわけである。
では、タイトルの「したくない事を排除する」とはどういうことか?
今から7~8年前
私は徹底的に「したくない事をしない」という選択をした。
そのときに理解したのが「したくない事をしない」ということは、実は「したい事をしている」ことなのだと気付いたわけである。
「したくない」という「衝動」のまま「行動」しているのであるから、それは「したくないから避ける」という「回避をしたい」という「行動」なわけである。
だから「したくない事をしない」ことで「したい事」をし続けることになったのである。
ただ、ここで「したくない事」の「型」をはめてしまえば、それは「したい事」の「型」をはめることと同様のこととなる。
だから、ただただ「したい」「したくない」の「衝動」を見つめる中で、本来「空」でなければならない心に染み付いた「色」が見えてきたわけである。
それが見えたなら、あとはその「色」を掃除すること。
それが恐らく1年がかりのことだったと思う。
そうして「色即是空」という「掃除」が当たり前になった段階で、【神人和合】の『奇跡』が起こったということになる。
「色」が付いた心にいくら「御言」という「色」が降りても、それは純粋な「御言」の「色」ではない。
「御言」すら降ろせぬ器に「神」が降りるわけもないのである。
「御言」というものは「言葉」で来るものではない。
「心」という「水面」に振ってくる「火」なのである。
「水」が濁り荒れていて歪んでいては、その「火」が起こす「雲」は違ったものになってしまう。
いくら「導き」を伝えても、明後日の方に進んでしまうことになるわけである。
色不異空 空不異識
「色」と「空」は違うのだと・・・
色即是空 空即是色
心の「掃除洗濯」をせよということである。
心にこびりついた「色(識)」を、心に散らかった「色(識)」を掃除して洗濯して綺麗な「空っぽの器」にせよということ。
そうして「空(無色)」の心に新たな「色」を写し取れ・・・・
ということである。
「翻訳」されながらの「伝聞」は、やがて最初の姿から全く異質のものへと変化する。
三蔵法師はそのことをよくわかっていたと思う。
だから必ずサンスクリットそのままの発音の「真言」を経典中に入れている。
だがそれでも「発音」は変わってしまうのだが・・・・
それでもちゃんと「伝わる」ことを切に願っていたのだろうと思う。
だが結局は「色」によって歪んでいった。
幾重にも「色(識)」が上塗りされたものが伝わることとなった。
この「掃除洗濯」が出来なければ「観自在」とはならない。
「観自在」とは「空(透明)」な心に映る「色」を自在に観るということ。
観るとは「五感で感(観)ずる」ことである。
「感(観)ずる」とは「受・想・行」を真っすぐに「識別」すること。
色を観じ、音を観じ、香りを観じ、味を観じ、肌触りを観じ、識別して「言」へと転化し、さらに「事」へとつなげてゆく。
身・口・意の三密の一致
それが「したい事をする」ということである。
受想行識について(癒奏術の施術より)
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