宇迦之御魂神(ウカノミタマ)~生命転化の神の玉 《癒奏術・惡の章》
スサナル神の「示現」の🌀(渦)は「時」の流れの中に存在する「無常」のエネルギーであり、躍動し活動するすべてのものに内在する「千変万化」へ誘う御魂神で、霊界に無数に漂う生命の種である。
「穀物神」といわれているが、それは『ウカノミタマ』の「良い」とされるところだけを指している呼び名であり、それが「縛り」となって「稲荷神」に「役」を与えているともいえる。
実際、「ウカノミタマ」に自らどうこうしようとする意思はなく、「受けた影響に応じて反応」し行くものだからである。
当然、「稲荷神」と言われる「キツネ」にも「ウカノミタマ」は内在しており、それが内在しているからこそ生命として発現し躍動するに至る。
霊が霊として発現するにも「ウカノミタマ」の「発現力」があって生まれ存在し得るのであるが、霊の場合「穀物」などのように「決まった法則」に則って規則正しく成長転化するわけではない。
受けたものの影響が発現して姿かたちや機能を有してくるわけで、それが如何なるものであっても発現する条件が整えば発現するのである。
だから、どんな影響を受けるかで「精霊」のようになるのか「化け物」のようになるのか・・・・
ということである。
八岐大蛇の大禍が起こった時、「ウカノミタマ」が様々な「邪悪」な存在へと転化した。
それは「天の益人らが過ち犯しけん草草の罪事」によって「天津罪」「国津罪」が「許許太久(ここだく)の罪」となり湧き出で、それが「ウカノミタマ」に影響し「八岐大蛇」を発現させたわけである。
八岐大蛇とは様々な姿かたちに化生した霊たちであり、「罪」を受けて発現し様々な化物(ケモノ)となって湧き出でた。
だから「素戔嗚」に罪は無く、一度発現してしまったものはどうしようもない。
だがそれでも責任があるとして「退治」という「鎮め」のために奮闘したわけである。
それらが鎮められたのが「戸隠」であったり「諏訪」であったり「春名」であったり、例えば「九頭竜神」などと祀られている場所であったりする。
その中に「伊勢の山田」で鎮められたのが「キツネ」という「化物」であるが、キツネは改心を示したので「ウカノミタマ」を「恵み」の循環の中で発現させる「お役」や、再度「大禍」が起こらないようにと監視しているという「役目」も行っている。
「化物」には「化物」でしか対処しづらい。
だから、よからぬ「化物」を見つければ対処する・・・というところであろう。
しかしすべてを対処しきれるわけもない。
「罪事」が増えれば増えただけ「ウカノミタマ」は「化け物」として発現してしまう。
だから人も祓わねばならない。
罪事を増やすのはいつでも「人」なのであるから。
自分の不幸を親のせいにするように、それを「示現」させたとして「スサナル神」に罪を被せたところで事実はなんら変わらない。
恵みを示現させるも穢れを示現させるも人次第である。
理に忠実な動植物にそんなことが出来るわけがなく、いくら「化物」の霊が暴悪でも、それは発現した「天の益人の罪」によるものであり、神々はただただ「元の循環」へ還そうと浄めを行っているにすぎない。
そんな「浄め」も「示現の🌀」で発現されるものであり、それを棚に上げて「悪」だけ押し付けたところで解決するどころか「罪」を先延ばしすることとなっただけである。
神話の中にもエヴァにリンゴを食べさせた蛇の「知恵」と言う名の「理屈」が紛れ込み、先延ばししたものの🌀が今わの際に示現することとなったということである。
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