『稼ぐ』~見方を変える意識操作 《癒奏術・三四五》
人は言葉によって意識操作され「見方」を変えられていることが多々ある。
「見方」を変えるだけで思考が変化するという「言葉」を使ったトリックである。
だがそのトリックが日常的に溶け込んでしまえば、もはやトリックであることに気づかなくなる。
それはいわゆる「呪」というものであり、人の意識や行動を「曲げる」ことのできる意識操作である。
「稼ぐ」という言葉を使うとき、人は「得る」という概念を想起する。
対価を得る
報酬を得る
満足を得る
喜びを得る
「得る」という言葉に付随する感情も想起する。
だが、言葉から「感情」を排除してしまえば、その言葉の意味するところは明確に見えてくる。
「稼ぐ」と「得る」はさして変わらない意味合いの言葉であるということがわかる。
ただ、付随する「感情」が違うため、『違うもの』としてとらえられているが、実はさして変わらないのである。
例えば、買い物をすれば品物を「得る」わけであるが、ここで人は品物を「稼いだ」などとは思わない。
思わないが実質同じなのである。
ただ付随する感情が違うだけ。
人の頭は「稼ぐ」と「買う」を『同じもの』だとは思っていない。
だが実質は同じものなのである。
「買う」というとき人は対価に「金を払う」と思っている。
「稼ぐ」というとき人は「金を稼ぐ」と想起する。
だがそれは単なる一方的なモノの見方から生ずる「思い込み」であるが、「見方」を変えられ意識を変えられた思考には、「買う」と「稼ぐ」は『同じもの』とは思えなくなっているわけである。
人は「お金を稼ぐ」ためにちゃんと「対価」を払っている。
対価を払っているなら当然それは「買っている」わけである。
だが人は「稼ぐ」という言葉に固執する。
それは「お金を買っている」などという「モノの見方」などしたことが無いからである。
つまりは「その見方を知らない」というだけの話である。
また、品物を「稼ぐ」ということも真である。
労力、対価を払って「金を稼ぐ」のと同様に「金を払って」品物を稼いでいるのである。
この「買う」と「稼ぐ」の『使い分け』こそがトリックであり、モノの見方を変え、意識を操作し思考を変える「呪」である。
「買う」という言葉で起こる意識の場合、人は「損失」するものについても当然考える。
「買う」に比例して「払う」は増減するわけであるからだ。
だが、「稼ぐ」という言葉の場合、「損失」に対しての意識は薄まる。
それは「払っている」という気が起きないからである。
「稼ぐ」に対しては「払う」ではなく「努力する」や「効率よくする」などが退避する言葉として思考に持ち上がる。
そして何より「生計のため」や「夢のため」などなど、都合のいい言葉を使いたがる。
だが、それも「使いたがる」ように操作されているということである。
生計のために本来稼ぐのは「食料」であり「住居」であり「衣服」であり「嗜好品」であり「娯楽」であり・・・・
それらを「稼ぐ」のが本質である。
だがそれらは「買う」という言葉を当てはめる。
そして、その手前に「金」を媒介させるため、「金を稼ぐ」という言葉を一般化させる。
なぜそのようなことを行うのか?
それは「金」を『売りたい』ものが仕組んだ言葉のトリックであり「呪」である。
以来、金は「飛ぶように売れに売れて」いるわけである。
そして人々は知らず知らずに「買わされて」いるわけである。
人は勝手に「金は売り買いするものではない」と思い込んでいる。
ただの思い込みである。
だが実際は「必要以上に」売れている。
「じゃあ何で金を買うのか?」
いや、ちゃんと対価を払っているだろう。
時間を払い、労力を払い、足りなければ知恵を絞って「誰かのなにがしかを削って集めて」それを対価として支払って「金を買っている」のである。
しかも「必要以上に・・・・」である。
必要以上に買っているため、だが「支払っている」感覚が無いために、人は心身を削ってしまっているわけである。
時間を売って金を買い、その金で再び時間を買うという・・・・
生計を立てるために金を稼ぎ、金を稼ぐために生活を削っているという・・・・
遊ぶ時間を削って金を稼ぎ、稼いだ金で遊ぶという・・・・
本来買わなくていいものを買うという「無駄」を一段階差しはさんでいるわけで、その「差しはさまれた」ものが「金」なのである。
金を「買っている」ものがいるならば、当然「売っている」ものもいるわけである。
それが銀行家であり、紙幣発行者であり、それらの「総元締め」である。
金が売れれば売れるほど、彼らの権力は強くなる。
人が欲すれば欲するほど彼らの権力は強くなる。
「見方を変える」
たったそれだけのことで世界は彼らの権力に降った。
大量に売られているということは、大量に出回っていることになる。
実際、金は泡のごとくダブついている状態である。
そうなると金の価値は下がってしまう。
だからダブつかないように、どこかにプールして隠して、市場という「川」の水を減水させるようにしているから、価値は下がらず「欲する」という行動を起こさせて、権力を維持しているわけである。
川の水量をコントロールするのと同じく、金の量をコントロールすればいいだけの話なのである。
そうして人は「金を買い続ける」顧客であり続ける。
「買っている」という意識さえ外してしまえばいいのだから。
ダブついているはずの川の水量を減らせば、人は渇きに耐えられずなんでも「売る」ようになる。
親兄弟でも子孫でも、自分の魂までも売るものがどんどん出てくる。
一線を越えさせる
それができればあとは楽に「金」のコントロール下に降る。
だが「買っている」意識が無いから「払っている」意識も「売っている」意識ものぼってこない。
「稼ぐ」という言葉のレトリックで、世界は破滅へと向かっているのである。
それが、蛇がイヴに授けた「知恵」というものであり、魂を売らせる悪魔の「知恵」でもある。
そして世界はこの「MATRIX」の中・・・なのである。
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