『鎮魂帰神~神の内流』・・・神人和合の二つ道 《神人一致の理》




出口王仁三郎氏は『帰神とは神懸かり』であると説明しているのと同時に「神憑き」という「霊懸かり(邪霊・悪霊・動物霊)」の『別』があると説明している。


「神懸かり」と「神憑き」

けっして「似て非なるもの」ではない。

全くといっていいほど違う。




⦿の人は「神憑き」を起こさない。

〇の人は「神憑き」と「神懸かり」の違いがわからない。


それは「霊感」や「霊能力」以前の問題であり、人としての『道』の問題である。



『神をも審神者(サニワ)する』

それが出来るか否か


出来た「つもり」には誰でもなれる。

だが、「つもり」ではなく揺るぎなく「出来ている」とわからねば、「神憑き」を排除して「神懸かり」を示現し続けることは出来ない。

そして、「神懸かり」を示現し続けるには、くだらぬ「欲」を手放していなければ不可能である。




「神憑き」は「欲望」と親和する。

「神懸かり」は「欲望」を照らし「影」を露わにする。

影の中の闇(病み)に潜む神憑きの霊たちを照らし出す。


「神憑き」から抜け出せぬものはもはや救いようは無い。




『神懸かり』とは「神の内流」である。

神懸かりにも二つの道がある。

それを出口王仁三郎氏は「直接内流」と「間接内流」の二通りがあると説明している。



私が施術で行ってきたのは「間接内流」の「道を開く」ことである。

そうして「間接内流」から「直接内流」へと至る真っすぐな『道(柱)』が通れば、やがて「直接内流」が『受け取れる』ようになる。

当然それには「修養」が必要であり、フラフラと常に移動する⦿の・を「不動」のものにせねばならない。

〇に引きずられる意識を・(真ん中)の一点に据え置き「不動」とする鍛錬が必要なわけである。



「導きを受け取る」のに「間接内流」の方がわかりやすいわけであり、それは「次元間」の距離があるからで、それを「次元間の伝聞役」として「間の次元」に『仲介者(媒介者)』となるのが「神意を伝える天使(厳の魂)」と「神意を受け取る巫女(瑞の魂)」

つまりは『豊玉・玉依』という「姫(秘〆)の型」である。


癒奏術による「修祓」「雷華」「多々羅」の三つの施術は「五の次元の巫女の育成」

『豊玉・玉依』の『玉依姫』の育成である。



そして五の次元の「玉依姫」は、今度は「豊玉姫」となり現世の人が「玉依秘〆」となって「受け取る」ということ。

七の次元から五の次元、五の次元から三の次元へと段階を踏んで神意が流れる「内流」

これが「間接内流」となる。



この「間接内流」と「神憑き(霊懸かり)」を勘違いするものも多い。

むしろ「神憑き」を『手放そうとしない』人が多いわけである。

心に巣食う「闇(病み)」を照らしても、けっして「見ようとしない」からである。

闇(病み)に囚われ振り回されているそのことが「闇(病み)」なのであるが、病んでいることが「当たり前」になりすぎて、魂の「健康な状態」を知らない。

〇の状態が常套化し、⦿になろうとしなければ無理なのである。


魂の「健康な状態」とは「内流」が常にあり「闇(病み)」が起これば照らされてすぐに浮き彫りになる。

だから「神憑き」は起こらない。



邪霊、悪霊、動物霊は「神の内流」を嫌う。

だから常に邪魔をする。

その「邪魔」を『心地よく受け入れている』から「神憑き」という「霊懸かり」をしている状態なわけである。

だからそれを施術で「祓う」のだが、祓っても祓っても自分から「神憑き」のほうへ手を伸ばす。


これは「霊」の問題ではなく人の「心」の問題なのである。






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