『導きの泉(尊)』 《癒奏術・三四五》
パレスチナの自治区に於ける警察権はイスラエルに在り、自治区の治安を守るという名目ではあるが、その実、パレスチナ人から土地を奪い、女子供さえ銃で撃つという事が日常的に行われていたため、政府に対して「パレスチナへの行いを改めろ」とイスラエル国民はデモを起こし、このままでは「ハマスが黙っていない」ことがわかり切っていたため、国外への脱出を試みる人も増えていた。
だが政府はむしろ更にパレスチナ自治区に対して強権的になり、そしてとうとうハマスの攻撃が始まった。
そして現在、戦火はどんどん拡大している。
現在の日本はそのころのイスラエルと酷似している状況になっている。
イスラエルがそうであったように、日本ももはや国民の声など聞かない。
誤魔化しも、言い訳さえもしない。
ただただ淡々と予定を実行するだけである。
日本では現在、10月からのワクチン接種に関して「レプリコンワクチン」を導入するか否か・・・ということを検討部会で審議されている・・・ということになっている。
審議されている内容は恐らく「開始するか否か」ではないだろう。
「いつから、どれくらいの割合で、どのように進行していくか」
という審議であるはずで、もはや「レプリコンワクチン接種」は『決定事項』だろう。
もはや政府に何を言ってむ無駄である。
国民は「被害を身近に感じてはじめて気付く」ので、身近に被害がない人には「馬の耳に念仏」である。
実際、被害が出ていても「別の理由」を紐づけしている人も多い。
何より多くの「医者たち」が沈黙している。
これから起こる大津波は「情報」を漁っていては間に合わない。
自分で即断即決して行動できなければ波に呑まれる。
エビデンスが出るまで待っていれば、気付けば自身がエビデンスとなっていることだろう。
6年前の覚醒時から
『急げ、急げ』
神々にせかされるままに、追い立てられるように導きを実行してきた。
そして4年前に「実地」の「予習」が始まった。
導きは常に「本番」でしか得られない。
だから「予行演習」といえど「実地」である。
その中で再び道を示され、何度も何度も実地を繰り返す中で「法則」という「道」を見つけて、その「道」が「何処へ向かおうとしている道」であるかをようやく理解する。
ここから先、予言も知識もエビデンスも役に立たない世界となる。
「導き」だけが行く先を示せる。
それは「誰かの導き」ではなく「自分だけの導き」でなければ意味がない。
自分が受け取れなければ終わる・・・
受け取った導きを即行動に移せなければ終わる・・・
実地を何度も繰り返したものだけが、自分の導きに「信」を置ける。
何もしていない者は自分すら信ずるに値しない。
錯綜し混沌と化した情報の中で「兆し」が読み取れるものだけが情報を理解する。
それがわからなければ情報の波に呑まれ溺れるばかりとなる。
ここから先、導きは「瞬間瞬間」に訪れる。
一人ひとりが全く違う。
だから自分で受け取れねば意味がないのである。
その「瞬間瞬間」の導きを受け取れるようにするために、癒奏術で受け取るための「結び」を行ってきた。
だが多くの人はやはり「被害」が出なければ動けない。
一生懸命に「瞬間瞬間」に導きを降ろす「守護」を無視して、くねくねと蛇行する蛇のように、のらりくらりと時間を食いつぶしている。
風の時代は、良いものも悪いものも「風のように」流れてゆく。
誰かが手を引いて、道を、レールを敷いてくれる時代はとっくに終わっている。
だが人はその型を手放せない。
向かい風が突然横風に変わり、追い風になったと思ったらまた向かい風となり、穏やかの涼風が突風へと豹変する。
そんなものに道は築けず、レールなど敷けるはずもない。
それでもまだ誰かがレールを敷いてくれるのを待っている。
だから「大難」となるのである。
何度も何度も行動し、自身を確かめ確信を得た者だけが「導き」を享受する。
思ったことをどんどん進めて、何が良くて何が悪くてを繰り返し確かめ得た者だけが「導き」の良悪を知る。
善神の導き、悪神の導き、その「違い」を知ることが出来る。
「導き」は人それぞれ全く違うもの。
たとえそれが同じ状況、同じ場所にあっても・・・である。
導き手が「何を教えたいか」で全く違う行動を起こさせる。
だから誰かの「予言」などどうでもいい。
誰かの導きなどどうでもいい。
自分自身の自分自身による自分自身のための導きを受け取ることが大切なのである。
だから、誰かの「同じ」ことをしていても、誰かと「同じ」方向へ進んでも、全く意味が無いのである。
同じ道を進んでも救われるものと救われぬものの差があるわけである。
何度も何度も受け取り、何度も何度も行動し、そうしてようやく得た「確信」が「核心」であり「自分の軸」となる。
軸が出来ればもはや情報の波に呑まれることはない。
それは何度も何度も繰り返すことで得られる「核心」
自分にとって何が良く、何が悪いかの判断の「核心」
その「核心」が『天地を繋ぐ柱』であり、『天の眞名井の泉』となって『導き』が湧き、川が流れるように流れるべく方へ流れてゆく。
その流れに身をゆだねるとき、それは「神風」に乗る船と変わる。
その「核心」をブッダは『天上天下唯我独尊』と言った。
イエスは『父と子と精霊』の結びを示した。
唯我独尊
ただ我独りだけの尊(みこと)
御言が尊し命する
天の白瀧の御言
天の眞名井の尊
それが川となり命となる
⦿(御言)が ✙(尊)し 卍(命)する
「心」という池の「何処から」泉が湧き出しているのか?
水が汚れていては見えない。
水面が波たっていれば見えない。
ゴミが散乱していたら見えない。
清く静まり返った水でなければ、泉から湧き出る導きの水は見えない。
心が『明鏡止水』となって、はじめて「尊(みこと)」が確信できる。
多くの人の心の池には、様々な「神の像」が沈んでいる。
そしてそれを「神」と崇める。
湧き出す「泉(尊)」を無視して・・・・・
それでどうして「導き」が受け取れようか・・・・
眞名井の泉が見つかるまで
尊き泉が見つかるまで
心を掃除洗濯して
尊を命するを何度も繰り返し
柱を盤石にするべし
即身仏は死するに非ず
命するから仏なり
0コメント