仏魔の神殺し


 

続・華厳の道より抜粋・・・




仏魔


記紀が編纂された時代は仏教が日本に広まり始めたころである。 

それまで日本の【神】は『石』や『木』に降りる『霊』として祀られていた。 

だが、仏教の伝来と同時に寺社仏閣というものが建ち始め、同時に『仏像』というものが崇められるようになった。 

そうすると【神】も仏像のように『擬人化』が始まる。 


かつて「石」や「木」などの自然に宿る『精霊』であったものが、擬人化された「像」に宿るものとなり、【神】そのものが「擬人化」されていった。 

それは【神】の『在りて在る』姿を「矮小化」するものとなり、やがて「自然」そのものであるはずの【神】は、人の『情け』を持つ不自然な存在へと変貌していった。 


かつては【神】という『理(ことわり)』に反しないように人は「知恵」を使っていたのだが、【神】そのものが『自然の摂理』という存在から『人の側』に立つ存在へと変わるということは、人が使う「知恵」そのものの「在り方」が変貌する。 

自然を壊さないよう心がけながら行っていたものが、「人の情」が主体となって「知恵」が使われる。 


『神社』という社に降りる神は、かつて木々や石や磐座などの【依り代】に降りていた『精霊』という存在では無く、もっと人の身近な存在である【霊】となってくる。 

それは木石などの「依り代」に宿るのではなく、社という『器』に【浮遊する】存在なのである。 

 木々や石や磐座ではなく社という「人の家」のようなところで【神】を祀ることで、人の意識の中の【神】は『自然』から離れていった。 

そして世界も『社』という人の手で作られたものである『箱庭世界』へと変貌していくこととなる。 

また外国では魔女狩りが行われ、自然に宿る『精霊』から「教会」という『箱庭世界』の【神】へと変貌していった。 



自然の「依り代」という【柱】から「社」という【器】に変わるということは、そこで祀られる【神】そのものも【柱】を失った存在になっていったということなのである。 

その変貌は「人のため」という一見『善』なるものに見える理屈で「自然を破壊」する行為へと発展してゆく。 

『神の名の下に』堂々と行われる『神殺し』という自然破壊になってゆくのである。 

ゆえに記紀では「神を殺す」ことで恵みが生まれるとされている。 

そうして神が殺されていった世界の行き着く先が『砂漠』である。

かつて文明の栄華を誇った地域はことごとく『砂漠』と化している。 

【神】は人の側に立つ・・・という傲慢さの行き着く先は常に『文明の崩壊』なのである。 



 イザナギとイザナミの神産みで生まれた数々の『神を結ぶ』のが【稚産霊神】である。 

だが、自然の中で大地を潤す【罔象女神】の精霊が死んで「水」が消えれば、【稚産霊神】は恵みを結べなくなる。 

結ぶために必要な神が消えてしまうのであるから、【稚産霊神】といえどもどうしようもない。 

豊かさのため、幸せのためという「人間中心のエゴ」を体現した神々は、自らが神を殺し自然を破壊し、やがては人をも殺してしまうことにすら思い至らない。

そんな愚かな「霊」たちという【神々】で「霊界」は埋め尽くされているのである。 

文明の崩壊という前例を常に目にしながらも、世界は再び同じ過ちを繰り返しているのである。 




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